アンニュイ 【2】
今、何時だ? バスが来る時間だろ? とマコトはタケルに尋ねた。タケルはさっき時計が壊れて止まっていることに気づいたので、スマホをポケットから取り出して、三時だと伝えた。言ってから、マコトの左腕にはごつい金の時計がしてあったのに気づいて、自分で見ればよかったじゃないか、とタケルが言うと、マコトの腕の時計もさっきから動かなくなったのだと言った。
「妙なことがあるもんだな」とタケルは缶コーヒーの残りを飲み干してほとんど独り言みたいに言った。
「ハルカが急に居なくなったのに比べれば全然妙じゃないさ」
「お前に問題があったんじゃないのか」
「さっきも言ったろ、コンビニにいくみたいな風にして出て行ったって」
「だからそれは」
「おい、バス、きたぞ」
「ああ」
バスに乗り込むとマコトは直ぐに眠り込み、タケルは一人で文庫本を開いた。バスの中は閑散として居て、(冬のこんな時期に海の街まで出かける人間はそう居ない)静かで、運転手のドライな声が響いて居た。タケルは自分の元を去って直ぐにマコトと付き合ったハルカを探すためにマコトと一緒にバスに乗っているのはとてもお奇妙な気がしたし、これからあの街に行くと思うと気が立ってしまって、読書はちっとも進まなかった。主人公の女が春果という名だったのも、その一因だったのかもしれない。
マコトは学生時代からいい男だった。寡黙で何事もそつなくこなし、何より行動に正しい力があったとタケルは思って居た。彼が女を待たせるときには、必ず女が待ってしかるべきような(女の方が待つことを望むような)正しい理由があったし、彼が下らないような話をするときは必ずそこに含意があって、それはタケルのような一部の男にしか、伝わらない高度な話し方なのだと思って居た。タケルは彼のそばにいることで自らも崇高なものであるような気がして居たのだ。
おい、もう着くぞ、と声をかけようとして息を吸った瞬間、マコトは目を覚まして一つ大きく伸びをした。綺麗な海だなあ、ここならハルカがやって着たくなるのもわかるような気がする、と言い、タケルは眺めて居た文庫本を閉じた。「春果」という物語の女は泳ぐのが苦手だった。マコトは正しい男だから、ハルカがマコトの元へ行ったのも正しいことなのかもしれない、そんなことをタケルは考えていた。
「案内してくれ」
「ああ、時計屋だな」
「いや、その前に。もう日が暮れるから、先に海を見に行こう。ハルカなら、こんな時間に海を見たいと言い出しそうじゃないか? 」
「確かにそうだな、マコトはよくわかってるよ」
「はは、ちゃんと愛してるだけだよ」
「そうか」
「ああ、彼女はきっとこの街にいる、お前との思い出のこの街に」
「イヤミな言い方やめろよ」
「今は俺の恋人なんだ、それなのにお前との思い出の場所を辿らないと彼女に会えないなんて、こんなきついことがあっていいのか」
「まだここにいると決まったわけじゃ」
「いや、もう俺と行った場所はあらかた探したんだ。あとは、お前との思い出の中か、彼女自身の過去のどこかにいるしかない」
「だからここじゃないかも」
「いや、いるよ彼女はここにいる、そんな気がするんだよ」
「そうか」
「あっ、時計、動いてるよ、俺の」
タケルはハルカのために禁煙したタバコをまた吸い始めたので停留所の喫煙室で一本吸い、磯の香りと混ざり合う懐かしい煙の匂いを感じていた。コンビニを探すと行って出て行ったマコトの後ろ姿には冬の、冷たい夕日が照っていた。
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