肉体を喰らう巨大ムカデ
窓の外に現れた巨大なムカデが、課長の頭を丸呑みした。
課長。
私のことをわかっていて親身に接しているつもりでこれっぽちも私の内面を理解していないおじさんだ。でも、いい人だった。奥さんは確かうつ病だと言っていた。だからうつ病には詳しいんだ、と彼は私にそう言った。けれど『うつ病は自分の思い通りにいかない人が癇癪を起こしているだけだ』とどこかで思い込んでいるのが、話しているとわかったので特に信頼もしていなかった。とはいえ嫌いではないし、うつ病の奥さんは旦那さんがムカデに食べられて大丈夫かなぁ、と心配になった。
ムカデはうじゃうじゃと足を動かして今度は私たちの席に近づいてきた。
私はそれをぼうっと眺めている。
巨大ムカデは最初に班長を頭から丸呑みした。居眠りしていた彼は、ほとんど抵抗することなく飲み込まれていった。
そのあとは、すぐ目の前に座っているおばさんを食べた。
私の着ている服や、電話の応対を逐一監視していて細かく指導してくれた彼女を、私は大嫌いだった。彼女は『老婆心』という言葉を盾に私にケチをつけるのが日課だったし、なにより顔が醜いので嫌いだった。
だから私はむしろ、恐怖にゆがんだ顔で飲み込まれていったおばさんよりもムカデに同情した。そんな汚いものを食べるなんて可哀想に。
それから、ムカデは私の同僚を次々に食べた。
私と喧嘩したことのある同期。無関心なおばさん。無口なおじさん。みんな食べられてしまって、あっという間にその場から人はいなくなった。
私の大好きな優しい先輩は出張中だったので、よかったなぁと私は黙ってそれを見ていた。
ムカデが私のほうへやってきた。
頭からがぶりとやられて目の前が暗くなったけれど、不思議と痛みはない。
頭の片隅で、家で私の帰りを待つ一匹の犬と愛する恋人のことを想った。
どうか悲しまないで、私のことを忘れて、幸せになってほしい。恋人が私の代わりに犬をさみしがらせないよう、育ててくれたらありがたいのだけれど。
ごりごりと体が食べられる音とともに、私は意識がなくならないことに気が付いた。
自分の肉体は確実に消滅しているはずなのに、精神だけがここに残っている。
そうか、と私はにわかに理解した。
このムカデは人を殺すムカデじゃなくて、肉体だけを消滅させる生物なんだ。
肉体から自由になった私は外に出てみた。
誰も私を見ない。たとえ道路のど真ん中を歩いていても誰にも承認されることがない。
それは私にとって何よりうれしく、落ち着き、幸せなことだった。
私はずっとこれを望んでいたんだ。こうして、私の体を縛り付ける肉体という枷から離れて、たった一人きりになりたかったんだ。
この幸せな気持ちのまま恋人のもとへ帰ろうと思い立って、そこで私はふと気がついた。
彼はきっと私を認識できない。
犬だって、この、匂いも形も音もない私を認識できない。
それはとんでもなく切なく、悲しいことだと気が付いた。
私は、精神を縛り付ける肉体に苦しめられると同時に、それにより利益も享受していたのだった。