小説『コズミック・テーブルマナー』#0
イントロダクション
記者界隈で沢口義弘の名を知らぬものはいない。「取材王」、「存在そのものが新聞記事」、「特ダネしか掴まない男」……彼はそんな二つ名をほしいままにする敏腕記者であった。その取材力の凄まじいこと、一度取材に出向けば、彼が持ち帰る大量の特ダネ記事により、その日の紙面における他記者の記事は悉く駆逐されてしまうのである。ある時にはテレビ欄を含む全紙面を埋め尽くしてもまだ収まらず、危うくあの「コボちゃん」までもが休載になりかけたというから驚きだ。
それが植田まさしの逆鱗に触れたのかは定かでないが、昨今、沢口の取材力にも俄かに翳りが見え始めた。その原因は、まさしのことを除けば、彼の掴む特ダネを掠め取ろうとするハイエナ記者たちの精鋭集団「記者ファランクス部隊」の存在が大きいと思われる。彼らは四六時中密集陣形を取り、沢口を執拗につけ回した。そして一度、彼が取材対象と見定めた相手があれば、そこへ向かって一斉突撃を敢行するのだ。
突撃時には数十名に及ぶ記者達が一塊となって押し寄せ、数メートルにも及ぶ望遠レンズを突き付けるや、一斉に写真を撮りまくる。爆発的に焚き付けられるストロボ・フラッシュは取材対象を失禁、さもなくば失明させてしまうことも多かった。
そして運命の日はやってきた。今をときめく実力派俳優若井タケオ、その新作主演映画に関する取材中のことであった。若井はその日、記者ファランクス部隊の激写に耐えるため、サングラスを二重に着用する念の入れようであった。しかし、記者たちの猛写はそんなちゃちな工夫などお構いなしに彼へ押し寄せた。彼が取材中に何気なくこぼした、映画会社社長の脱税の証拠。それは界隈を揺るがす大事件の端緒であり、記者たちの求めるまさに特ダネそのものだったのだ。哀れ若井は為す術もなく、ストロボ・フラッシュの光にその身を焼かれることとなった。
不運なことに、その内の一枚の写真で写りどころが致命的に悪かった若井は、それが原因で心停止、帰らぬ人となってしまったのだ。そしてまたその写真は、皮肉にも週刊誌の一面において彼の死亡記事を飾り、役者としての遺影ともなったのであった。
当然、若井所属の事務所社長は大激怒。それだけならまだしも、取材の中で発覚した映画会社社長の脱税を端緒とする各企業の癒着や暴力団との結びつき、数多くの殺人や売春等の凶悪事件が芋づる式に発覚し、日本の映画界を牛耳るプロダクションや芸能事務所、配給会社等の上層部が根こそぎ逮捕されたことにより、もともと死に体であった日本の映画産業は文字通りの壊滅状態に追い込まれたのであった。
事態を重く見た新聞社社長の命により、沢口は新聞社ビルの一番奥、社史編纂室と名付けられた薄暗い個室へと閉じ込められ、扉には鋼鉄の鎖に、掌ほどもある錠前が六つも取り付けられた。この若き才能の夭逝と、続く映画産業の壊滅、果ては沢口の幽閉に至るまでの一連の事件は記者ファランクス部隊の解散を招き、奇しくも日本のマスコミ界につかの間の秩序を取り戻させたのだった。
沢口はそれから一年近く、そこで社史を特ダネ調の文体で編纂したり、古新聞の記事をばらばらに切り、適当に貼り付けてとんでもない内容の記事を作る遊びなどに興じたりする羽目になった。
しかし彼の記者としての魂は燃え尽きていなかった。それは今宵この時をもって、一際勢いを増して燃え盛ったのである。その原因は他でもない。尋常でない大事件の予感! すなわち超絶的特ダネが、この日本のどこかで発生しようとしていたのだ。
荒ぶる記者魂に突き動かされた彼は、ついに社史編纂室の重い扉を破り、外の空気をその肺に満たしたのであった。そして幾度もの深呼吸ののち、爛々と光る彼の眼が、この一年彼を幽閉せしめた社長の居室に向かって細められた。
沢口脱走の一報は記者界隈に光の速度で知れ渡り、直ちに押し寄せたのはあの記者ファランクス部隊であった。新聞社廊下をぎっしりと埋め尽くすその見事な整列と、構えた望遠レンズによる突撃はすさまじい勢いであり、解散から一年のブランクを全く感じさせなかった。そしてその矛先は史上初めて、沢口本人へと向けられたのだった。沢口、絶体絶命のピンチ! かと思われた。
しかし沢口は一人、記者魂の高ぶりに任せて果敢に立ち向かったのである。彼は理解していたのだ。確かに軍勢の突撃力は強大だが、個々の成員は単なる一記者に過ぎない。対して、一年の間醸成され続けた沢口の取材力は今や尋常ならざるものであった。
「奴らはしょせん、この俺の金魚の糞的存在にすぎん。ならば、勝てないではない!」
この予想は的確であった。次の瞬間彼は、その身一つで数十人の軍勢を根こそぎなぎ倒し、勝利の雄たけびを上げたのだった。その勢いのまま、彼はビル内狭しと駆け、出合頭に同僚をなぎ倒しては階段を昇り詰めていく。そして数分後、ついに社長室の扉を蹴破った。
怒りに上気した彼の体は無数の記者たちのどす黒い血に染まり、その顔面はまさに復讐鬼の様相を呈していた。恐怖におののき失禁を禁じえなかった社長を睨みつけた彼は、その脂ぎった額に音高く辞表を叩きつけ、退職金代わりにと社長室金庫の中身を根こそぎ略奪し、その場を後にした。
最後の退社を済ませ、社屋を振り返ると、その瞬間100階建ての社屋は轟音とともに爆炎に包まれ、滑り落ちるように倒壊した。それを満足げな顔で見届けた沢口は次の瞬間、「特ダネが俺を呼んでいる!」と界隈に響き渡る金切り声で絶叫し、そのまま夜の闇へと姿を消したのであった。
記者界の最終兵器沢口義弘が解き放たれた。そのニュースはそれだけで新聞の一面を飾る大ニュースとなった。記者という記者は口々にその恐怖を語り、その手による記事は悉く以下の文言で書き結ばれた。
「ともあれ、本事件は今後、沢口記者の掴むであろう特ダネには遠く及ばぬほどの些細な事件であるが」
しかし当の本人はそのまま雲隠れし、その行方は杳として知れなかった。
「……沢口義弘ここにあり、だぜ!」
沢口は声に出さず、唇の動きだけでそう言ってみせた。彼の手には、社長室の金庫から強奪してきた愛用のカメラがしっかりと握られている。カメラが掌に吸い付き、手の血管からフィルムまで血の通うようにすら感じる。一年ぶりの懐かしき愛機との邂逅は、彼に記者としての勘を完全に取り戻させていた。
そしてまた、虫の知らせとでも言うべきか。この一年、溜まりに溜まった彼のおびただしい取材力は、彼の記者的直感を神がかり的なまでに鋭敏化せしめ、結果として彼自身をこのビルの一室へと導いたのである。何が起こるかは彼にも分からないが、必ず何かが起こる。それだけは分かっていた。この場所こそがこれから、日本で最もセンセーショナルな特ダネの発生する場所なのだ。
沢口は固唾を飲みながら周囲の様子を伺った。すると予想通り、扉が開いたのであった。数人の男たちが部屋に雪崩れ込むように侵入してくるやいなや、やけに楽しげに歓談を繰り広げ始めたではないか。彼はそっと首を起こし、その姿を確認して、慄然としたのであった。
男達の一人に、見覚えがあったのである。
「あれは、大泉総理……!」
そう、そこに居たのは、この日本国の総理大臣である大泉晋太郎その人であった。以前、沢口が彼の秘密であった女装癖をすっぱ抜いたせいで、当時99パーセントを誇っていたその支持率は、今や2パーセントを下回っている。沢口にとっては因縁の深い相手であったのだ。
そしてその隣で談笑を繰り広げているのは誰か。……いや、「何」と言った方が正しいだろう。その大きな黒い瞳、それに細長い腕と脚、銀色の身体、腰にぶら下げた如何にも光線銃らしき物体……。そう。それは紛れもない宇宙的異邦人。所謂グレイ型と呼ばれるエイリアンだったのである!
「まさか総理大臣とエイリアンが手を組んでいたなんてな……」
沢口は物音を立てぬよう気を付けつつ、その様子を一枚、写真に収めた。全ての特ダネを過去にする、ピューリッツァー賞受賞確定文句なしの写真が、彼のカメラのネガ・フィルムに焼き付いた瞬間であった。
「早速だがエイリアン君、これは私からのささやかな気持ちなんだが、受け取ってくれるかね? ……持ってきたまえ、吉井君」
総理はそう言って指をパチンと鳴らす。すると傍らで待機していた彼の部下がアタッシュケースを抱えて現れ、エイリアンの眼前で跪くと、ケースを開いて中身を丸出しにして見せた。その中からは、容積いっぱいに詰められた山吹色に輝く塊が覗いた。すわ宇宙的贈収賄事件発生か!? と、沢口の目は好奇のために通常時の二、三倍も大きく見開かれた。
「こ、これは……!」エイリアンの銀色の頬が喜びに軽く上気した。
「そうだ。君の大好きな、超高級コシヒカリを使って作ったサフランライスだよ」
良く見ればアタッシュケースからは、湯気が上がっている。次第に、サフランの臭いが漂い始めた。なるほど、あれは所謂山吹色の菓子という訳ではなかったようだ。
しかし、好物がサフランライス単体、それも日本米で炊いたものとは……。エイリアンの味覚は余程地球人とは違うらしい。とは言え、これはまた違った方向で記事が書けそうな事案である。なので彼は、手にしたメモ帳に「宇宙は意外とエスニック」と書き殴った。
「素晴らしい。早速脇の下に塗りたくって良いかい?」
「ああ、いいとも。好きなだけ塗ってくれたまえ。どれ、私も……」
沢口は驚愕し、メモ帳から目を上げた。
「ぬ、塗るのか……」声なき声が彼の口をついた。そんな沢口の動揺をよそにエイリアンは、炊き立てのサフランライスを嬉しそうに手で掬っては、脇の下いっぱいに塗りつけている。おやおや総理も、部下の吉井君と一緒になって塗りつけ始めたではないか。
それにしても、総理だけでなく吉井君まで女性ものの下着を身につけている点を見るに、あれは極めて腹心に近い部下なのだろう。総理より地味な下着を選んでいるところが如何にもそれらしかった。彼はメモ帳に「黒下着内閣」と書き殴った。
「いやあ、やはり炊きたては素晴らしい。これしかないって気分になる。地球に来たら一度はやらないと安心して帰れないな」
「ははは、そうでしょうとも。何しろこのコシヒカリという米は、我らが日本国の誇る水稲栽培技術の粋ですからな」
そんな会話をつぶさにメモ帳へ書き記していると、不意に部屋に強いサフラン臭が充満し始めた。これはまずい! 沢口は慌てて鼻を摘まんだ。そう。実は彼は鼻の粘膜が弱く、スパイスをはじめとする特定の刺激臭を嗅ぎすぎるとくしゃみが出てしまう体質なのだった。彼は悔し気にメモ帳をポケットに仕舞った。
しかし、この状況。一国の首相が宇宙人を会食? に招き、もてなしている現場に立ち会うなど、なかなか出来ることではない。このままここに立ち会っていれば、それはそれは凄まじい大スクープが飛び込んでくるに違いない、と彼は確信した。しかしてその予感は、早くも現実となったのである。
「さて、エイリアン君」総理が声を低くして耳打ちをするようにそっと告げた。「我々の目的についてだが、覚えておいでかな?」
「ふふふ。総理、忘れるわけが無いではありませんか……!」
俄かに漂い始めたきな臭い雰囲気に、沢口の額から脂汗が迸った。総理は身につけたブラジャーをずらし、その乳首をほのかに露出させると、レース生地の隙間から紙束を取り出し、傍らの机に広げた。
「名付けて、大泉内閣政敵大殺戮大作戦だ!」
「ブラボー!」
大泉首相の熱の籠もった一声に呼応し、吉井君が一人、歓声を上げた。しかも、ぱたぱたと小気味良い拍手までつけて、健気に場を盛り立てようとしている。呆れた部下根性だ。それを受けてますます増長した首相は鼻息荒く、続きを捲し立てる。
「これは我が内閣の執り行う政治の邪魔をする不届き者たちの名前と写真、出身地、好きな芸能人、お風呂でまず初めに洗いがちな部位等を纏めたリストだ。エイリアン君。君にはここに名前を挙げた人間達を片っ端から殺害して回って欲しいのだっ!」
首相は歓喜の余り、口に泡を食いけたたましく声を上げた。視線はあらぬ方向に飛び、鋭く光っている。それはまさに狂人の目付きだった。
「心得た!」狂気の演説に、エイリアンが威勢良く返事を返す。「そしてその暁には……!?」
「うむ、エイリアン君。我々は今度、防衛省と国家公安委員会、警視庁を統合した全く新しい組織『暴力省』を打ち立てることとなっている。君には『暴力大臣及び殺戮庁長官』のポストを用意しよう! 我が内閣の下でその非人道的辣腕を存分に振るってくれたまえ!」
「ありがたき幸せぇ!」
事態は風雲急を告げた。首相のとんでもない計画の全容を把握し、沢口は驚愕のあまり顎が砕けそうだった。これはただ事ではない。一国の首相が発狂の末エイリアンと手を組み、政敵を粛正する作戦を立てている。あまつさえ、『殺戮省』なる変態組織を作り上げようと企んでいるのだ。最早、一刻の猶予もない。もはや特ダネとか、独占スクープとか、ピューリッツァー賞がどうとか言っている場合ではないぞ。この事を世間に明るみにしなければ! さもなくばこの国は、あの狂った女装オヤジとエイリアンによって、非人道的変態国家にされてしまう!
沢口が焦りの余り、身を捩った瞬間だった。彼の鼻を塞いでいた左手指が一瞬、彼の鼻から離れたのである。それがいけなかった! 瞬間、辺りに漂うサフランライスの危険な香りが彼の鼻孔を駆け上がり、彼の嗅覚神経を鋭く刺激したのだ。
「へぶし!」抗いようもなく、沢口は特大のくしゃみを放ってしまったのであった。
「何奴!」
「し、しまった! かくなる上は!」
沢口はこの状況から逃れようと、なりふり構わず窓の方向へと駆けだした。窓の向こうには、彼の取材七つ道具の一つ、緊急脱出セットが彼の逃走を助けるためスタンバイしている。そこまでたどり着けさえすれば、小型アタッチメント式緊急脱出ロケットの超加速爆熱炎上推進剤による音速の飛翔で、僅か数秒のうちに最寄りの新聞社まで逃げおおせることが出来るだろう。そうすれば即座に記事を書き、100万部の号外を刷ることが出来る。彼は走った。たった数メートルの距離を、まさに血反吐を吐く勢いで走ったのであった。
しかし悲しいことに、沢口の足腰は一年に亘る過酷な監禁生活の末、投げ売り価格のゴボウの如く劣化しており、かつてはヒョウのそれを彷彿とさせたバネの利いたスプリントは、親父のパンツのゴムに似たダルダル具合と化してしまっていたのだ。
そして、そんな彼の有様に対し、エイリアンの足の速いことと言ったら……。その俊足はある種デューク的、あるいは更家じみた健康歩法にも似た滑稽な様相を呈していた。しかし一方、その脚部の不自然なまでの超速連続往復運動は、地球の重力場という彼にとって究極的にアウェイな環境にありながら、その肉体を瞬刻のうちに第一宇宙速度! ……は言い過ぎた。大体その3600分の1程度の速さにまで加速させていたのだ!
「御用だ!」
エイリアンはたちまちのうちに沢口を捕縛し、抵抗らしい抵抗も許さず、その身体を柔道的要領でもって拘束した。
いざ取り押さえられてみれば、エイリアンのその枯れ木のような肉体は思った以上に重く、沢口を固く拘束する手腕の頑健さからは、その銀色の皮膚の下に存在するであろう頑健なるインナー・マッスルの気配を感じさせた。つまるところエイリアンは、意外と良い体だったのだ。
そして何と言っても、張り手である。彼の両頬へ、これでもかというくらいの執拗にすぎる集中的な打撃が往復で襲いかかる。一発で意識を持って行かれかねない強打が、間髪入れずに反対側から彼の意識を呼び起こさせるのだ。これは堪ったものではない。たちまち彼の頬はリンゴのように赤く膨らんだ。こうなれば最早、抵抗は不可能である。沢口の勘は、完璧な敗北を彼自身に悟らせた。
「おや、誰かと思えば……」こつ、と彼の眼前に革靴の音が響いた。沢口は苦々しげにその顔をにらみ上げる。「久しぶりだなあ、沢口記者……!」そこに居たのは他でもない。大泉晋太郎総理その人であった。
「エイリアン君、見たまえ。当該資料58ページの記述を!」首相は手持ちの殺戮リストを繰り、その中の一ページをエイリアンの眼前に突きつける。瞬間、エイリアンの表情が嗜虐的な笑みに歪んだ。
「ほほうなるほど、此奴が私の殺戮対象第一号というわけですな……」
「何だと!」沢口は唸り声を上げた。しかし、エイリアンに完全拘束されたこの状況において、それは室内にか細く響くのみであった。首相はその様子を眺めてこれ見よがしにほくそ笑み、静かに口を開いた。
「君がこの私に対して仕出かしたことを、よもや忘れたとは言わせんぞ!」
そう言って首相は、ブラジャーの肩紐を力一杯に引いて見せる。瞬間、それは肩に痕が残ろうほどの勢いで首相の皮膚を張った。凄まじい破裂音が空を裂き、それは沢口の耳に、日本の誇るゴム加工技術の先進性とそれに伴う恐怖とを同時に植え付けたのであった。
「殺害だ。殺害しかない! 君の罪は君自身の命をもって償ってもらう! さあ、エイリアン君。早速そいつを殺害して見せてくれ!」
「良いんですね?」嗤うエイリアンの大きな目は、弓張月のように細められている。
「ああ、良いとも。好きにして構わない。何しろそいつは、私の支持率を急落させた張本人だからな!」
「ほほう!」
エイリアンの漆黒の瞳が、さらに深い暗黒を湛えるのを、沢口は見逃さなかった。彼は、渇ききった喉を絞るように、最期の声を上げた。
「誰かっ! 誰か助けてくれ!」
しかし、それに答えるものは居なかったのだ。年がら年中沢口をつけ回していた記者ファランクスの軍勢は、先日彼自身が絶滅させてしまったし、彼のバックに控えていた新聞社も、退職してしまった。彼を助けられる存在など、それこそ地球上、いや、この宇宙の何処にも存在しなかったのだ。
「奥義、ミステリー大外刈り!」
エイリアンの鋭い声が部屋中に響き渡ったその瞬間、全身打撲の痛みが沢口を襲った! エイリアンによる華麗な大外刈りが瞬きのうちに彼の身体を宙へ跳ね上げ、そのまま猛烈な勢いで地面へと叩きつけたのだ。受け身の取りようもない沢口の身体は、強かに床へと打ち付けられる。そのあまりの衝撃に、彼は声すらも忘れ、体を捩った。彼はまるでミステリーサークルの刻印された畑の作物たちのように、力なく地に伏せるより他になかった。
「どうだい、ミスター沢口? 我が、ブラジリアン・エイリアン・ブラジリアン柔術の味は!」
「ブラジリアン・エイリアン・ブラジリアン柔術!?」
「やれやれ、沢口よ。貴様ともあろう者がその程度のことも知らぬとはな。一年の謹慎期間は貴様には長すぎたようだな! 冥土の土産だ。エイリアン君、教えてやりなさい!」
首相の言葉に、エイリアンが沢口を見下ろし、腕組みをして見せる。その枯れ枝のごとき剛腕に漂う凄まじい気魄と、随所に感じられるはちきれんばかりのインナー・マッスルの気配に、沢口は思わずたじろいだが、そんな彼の背後にはRC造の堅固な壁がそびえ、彼の退路を塞いでいた。
「ブラジリアン・エイリアン・ブラジリアン柔術……それは全く新しい格闘技! その成り立ちはまさに、複雑怪奇! まず、日本の柔道をブラジル人が取り入れ、独自に発展させたブラジリアン柔術。それを我々エイリアンが取り入れ、独自に発展させたのがエイリアン・ブラジリアン柔術! それをブラジル人が逆輸入して、独自に発展させた……それがブラジリアン・エイリアン・ブラジリアン柔術よ!」
「何だと! おのれ、ブラジル人とエイリアンめ! 日本人に黙ってよくもそんなことを! しかも、逆輸入だなんて!」
その複雑怪奇なる柔道の成れの果て、そしてその意外と浅そうな歴史は、沢口の類い希なる精神力をも疲弊させ、その正気を限界まで脅かした。実際、彼の脳のダメージは深刻であり、思考は一種の過熱状態にあった。
しかし一方で、沢口は考えていた。エイリアンのいうことが正しければ、奴の攻撃は柔道、つまり格闘術だ。一年の監禁生活のために弱り切った彼ではあるが、学生時代には空手をはじめとする多数の武術の経験があった。各武術を合わせて百段を自称する彼の経験の中には、当然ながら柔道も含まれている。
故に彼は、さっきの一投げで、彼はエイリアンの動きをある程度見切っていた。先ほどは不意を打たれたが、二度は喰らわない。隙を突いて逃げ出してやる。彼の目が再び生気に光った、その瞬間だった。
「逃げられる、とでも思っているのかね?」首相は革張りの椅子に腰を下ろし、弱り行く沢口を嘲って言った。「愚かな……自分の膝小僧をなぜてみるが良い」
そう言われて膝に手をやったその瞬間、沢口の顔が一瞬にして蒼白になった。確かに何か硬いものが彼の膝小僧のあたりに感じられた。しかし、様子がおかしい。どうやら、それがただ服の下にあるわけではないらしいと分かったその時、彼はようやく気が付いた。その硬い何かは、彼の皮膚の下へとめり込んでいたのだ。
「金属片を、埋め込ませて頂いたよ」エイリアンが沢口の顔を覗き込んで言った。「ブラジリアン・エイリアン・ブラジリアン柔術は、オリジナルの柔道とはひと味もふた味も違うのだよ、ミスター沢口。ブラジリアン・エイリアン・ブラジリアン柔術とは、ブラジリアン柔術に我々エイリアンのお家芸、キャトル・ミューティレーションを組み合わせた全く新しい格闘技なのだからな!」
絶望が沢口を襲った。そう言えばさっきから、足の裏に違和感がある。まさか……。彼の困惑の表情にエイリアンの嘲笑が答える。
「そうとも。その足の裏に埋め込んだものも含めて、先ほどの一投げで君の身体には、全部で十八個の金属片が埋め込まれたのだよ」
「多すぎる!」沢口は半ば悲鳴を上げるように懇願した。「取り出してくれえ、後生だ!」
しかしエイリアンの返答は無情である。
「無理だ。それらは埋め込まれた瞬間、全て君の神経組織に癒着している。この国の政治家と富裕層ぐらいがっちりとな! 取り出すにしても、頭の中のものは当然として、膝のものすら非常に厄介な外科手術が必要になるだろう。君の五年生存率は、良くてフィフティ・フィフティだ!」
「あ、あ、あばばばっばばば……!」
その瞬間、沢口の中でぽっきりと、回復不能の形で心が折れたのだった。突如襲い掛かった狂気と恐怖に彼は即座に爆発的に失禁し、その弾みで完全に発狂した。二度と戻れぬ狂気の淵が、彼を呑み込んだのだった。
「失禁確認……滅殺、完了!」
エイリアンは脚を交差させ、勝利のポーズをとった。狂気の深淵に引きずり込まれた沢口は、最早まな板の上の魚に等しい存在であった。泡を食って失禁したその姿を静かに見下ろし、ほくそ笑んだのは首相だった。
「ふふふ、これで我が人生の仇敵をまた一人処分したという訳か。吉井君、さあ、彼の自慢の一眼レフでこの哀れな姿を写真に収めてやってくれたまえ。それこそ本望というものだろう」
「はっ、かしこまりました!」言うが早いか吉井君は、床に散らばった沢口の荷物を引っ掻き回し、カメラを取り出すと、そのあられもない姿を写真に収め始めた。
「その写真は引き伸ばして額に入れ、部屋のあちこちに飾るとしよう」
ストロボ・フラッシュの目を焼くような光がエイリアンの銀色の皮膚に反射し、神々しく光っていた。首相はその姿に目を細めつつ、厳かに口を開いた。
「さて、エイリアン君。今後ともよろしく頼むよ」首相は人差し指を立てて、エイリアンの方へと向ける。応えてエイリアンもまた、人差し指を立てて見せた。
「クックックックック……」
二人の不敵な企み笑いが部屋に響き渡り、両者の指は徐に近づき始めた。それらはやがて重なり合い、そしてその瞬間、ストロボの光量を遥かに超えるまばゆい閃光を放ったのであった……。
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