嫌知らずなどという幼稚な造語について
私は嫌だと俺は嫌じゃないの単なる相互の争いに過ぎないものに、
「私が嫌だと言ったら相手はたとえ嫌じゃなくてもやめるべきである」というあまりに幼稚な考え方をしている。
なぜ嫌だと言ったらその嫌を絶対に相手が受け入れるべきであると思えるのかサッパリわからない。
色々なポストを読んだが、総じて幼稚すぎて吐き気がする。
世界はあなたの嫌を全部受け入れてくれると思ってるから、目の前に不快な広告があれば炎上させようと思うのだろう。
こんな幼稚な人間ばかりになってるのだから、社会もダメになるわけである。
この言葉の出処は知らないが、バカの考えた造語だと思った。
この言葉の不快なところは、要するに私が嫌だと言っていることを相手に認知させたいという歪んだ承認欲求を感じるところである。
つまり私が嫌だということを伝えてあなたがそれを気にしないのが許せない。私の嫌を気にしろというわけである。
私も誰かの何かを嫌だと思うことはあるだろうし、そして嫌だと伝えてやめて欲しいと思うこともあるだろう。
しかし、それが自分の思い通りに絶対にそうなるべきであるとは思わない。
ある人のある行為が私にとって不快であっても、その人にとっては譲れない行為であるかもしれず、私にはそれについて強制的にやめさせることはできないであろう。
行為であれば嫌かどうかじゃなく具体的な行為をやめさせるべきである。それは嫌かどうかは付随するもので、やめさせるのは具体的な行為のはずである。
一方的に悪いことの場合、たとえば毎朝おはようと言いながら頭を叩いて来るとかいうあたおかな人間に嫌だから頭を叩くなと伝えた場合、「俺は嫌じゃない」とは言わないだろう。もし嫌じゃないと言うんだったらそいつの頭を叩いてやればいいのである。
あるいは、飯食った後に皿をそのままにする人がいて、私はそれが嫌だと感じるが、相手は俺は嫌じゃない後でやれば良いという場合を考えてみても、最終的にきちんと皿が洗われて収納されるかどうかが問題であって、それが遂行されるのであれば後でやるか先にやるかは瑣末な問題に過ぎず、これはどっちかが譲らざるを得ない。無論飯食ってすぐ洗った方が良いような気がしないでもないがそこはやはり折り合いをつけるものである。
嫌知らずとか言い出してる人間の被害者意識は本当に気持ちが悪い。
他人は自分の思い通りにはならない。
私が不快、私は被害者、私の嫌を相手は受け入れなければならない。こんな傲慢な人間の存在自体が嫌である。
後記
だいぶ記事を没にしている。
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