松本人志の件、訴訟前に時を戻そう〜強い言葉の副作用〜
時を戻してみると、松本人志は今どのような状態なのかというと週刊誌に女性問題のスキャンダルを掲載されてしまったということである。
今、訴訟を取り下げて具体的な証拠が無いことが明らかとなり、傷ついたなら謝りますと(真相は謎)
松本人志は訴えられてもなく、相手側もこれから民事で争う素振りもない。
となると、これどの程度のスキャンダルなのだろうか。
よく芸能人が交通事故を起こして謹慎したりもするが、あれには一応法的に被害者がいて、慰謝料だって支払っている。
あるいは未成年に手を出して謹慎するものもいるが、厳密には逮捕されても仕方ないがなぜか芸能人はあまり逮捕されずそのままのことも多い。
松本人志は結局裁判を起こされるでもなく、賠償金を払ったわけでもなく、単に一般的に言ってモラルのない飲み方をして女性を傷つけたかもしれないということである。
私は、この顛末について良くないことがいくつかあると思う。
一つは松本人志が現時点でほとんど性犯罪者の如く扱われていることである。
時効だから裁かれないだけであって、本当は加害者なのだという論調がもはや公然の事実であるかのように語られている。
しかし、前述の通り訴えられもせず、捕まってもなく、慰謝料を払ったでもない。なんでもない人である。
もう一つは強い言葉を使う副作用である。
私は予々、性加害だの性犯罪だの性的搾取だの強い言葉を使うのは却って良くないと言っている。
それは本当の被害を矮小化しかねないからである。
今回の件で言えば、結局傷ついたならごめんなさい程度の謝罪で幕引きにするということは今後、過去に性被害を受けて〜みたいな話になった時にそれなら謝って貰えば、それで終わりでいいじゃないかとなりかねないからである。
あんなに苛烈な性被害があったかのような論調であったのに、最終的には謝罪一発で許すんだとしたら今後誰かまた何か言い出したとしても、謝りゃ良い程度のもんでしょと思われかねない。
加害という言葉が、あまりに軽くなりすぎたと思う。
今や見るのも加害隣に座るのも加害、近づくのも加害。
何もかもが加害という言葉で一括りにされてしまう。
本当の本当に悍ましい加害とそれらが全く見分けがつかなくなる。
そうなると私たちは程度がわからなくなり極端な意見になりがちである。
量刑のこっちが重くてこっちが軽いねと言えばじゃあどっちも重くすればいいでしょと簡単に言ってしまう。
加害・被害なんて言葉は裁判になってから使えば良い。それまで取っておくべき言葉だ。
日常生活を加害・被害フレームで考えること自体やめるべきだ。
謝って済むことならば、最初からそうしたらよかったのだお互いに。
後記
良いソファーがほしい。