同意について真剣に考えよう。
同じ話題が続いてしまって申し訳ないがところでとかく散見されるのは、「同意かどうか私には/俺にはわかる」という言説である。
私にはこれがおそらく一番危険なんじゃないかと思える。
この人たちのこの考えを担保してるのはおそらく今までの経験であって、それによって彼らはわかると言っているのである。
しかしそもそもその経験の大半は不同意性交罪施行前であろう。まさか施行後一年で同意について真剣に考えるためにあらゆる実地調査を行ったわけでもあるまい。
いや、したとしてもせいぜい数百人が限界であろう。
で、それらがまず今後も覆されない保証がない。
この時点で俺には同意がわかるといっている人は本当に頭が悪いか事態がわかっていないかのどちらかである。
わかるとは言えない、少なくとも時効までは。
それが覆されるまでわからないのだ。
それをわかると言っちゃうような連中がいても私はその後の話を聞こうという気には全くならない。
高々一般的な経験人数、それがたとえ多かったとしても校長でさえ12660人である。
12661人目はダメかもしれない。
そういうことを考えられるようにならないとダメです。
いずれにしろ私たち庶民にはこの法律が意味するところの同意なんてものは理解できるはずもない。法曹ですらわからないのですから。
グラデーションレイプなどというのがありましたが、私は同意がグラデーションであり得るのはまさに同意する瞬間までだと思います。
考えれば考えるほど私たちは基本的には100%同意、100%不同意なんていう状況はほとんどなく、大体は乗り気なのか嫌々(でもする)なのかが複雑に混ざっているような気がする。
あらゆる行動は(性行為に限らず)同意:不同意=7:3みたいな感じでめっちゃやりたいとしてもどこかにやっぱ怖いからやりたくない的な要素が混じったりする。
逆にやりたくないが大きくてもちょっとだけ試してみようかななんてこともある。
私がここで問題だと思うのは、同意不同意がグラデーションであることではなく、それが同意したのちにまでグラデーションを適用することであると考えました。
つまり後になってあの時の同意が実は不同意だったのだとして、当時の同意を書き換えることに問題があるわけです。
同意するか不同意するかまさにその瞬間は誰しも同意要素・不同意要素が刻一刻と変化していることは間違いないでしょう。
行為に入ろうとする瞬間、相手のある行動によって思い切り萎えてしまってやっぱ今日はしない、なんてことは当然に起こる。
し・か・し、全てが終わった後でこいつとセックスしたけどいまいちだったなぁ、やめときゃよかむたなぁ、やっぱり私は同意してなかったのに無理やり空気に飲まれてしてしまったんだ…的なグラデーションが起こるのははっきりとダメだと言わなければならないでしょう。
同意・不同意は直前まで刻一刻と変わる、完璧な同意や不同意は基本的にはない。しかし、刻一刻と変わるのはまさにその決定をした時までである。
決定した後に、例えば5年後とかにあの時の同意について検討することは当事者でも不可能であるし、ましてや法律家や赤の他人には検討不可である。(不同意を示す証拠があれば、それは可能と言える。例えば抵抗した時に腕を刺した傷が残ってるなど)
しかし、不同意が後から検討可能であるのに対して、同意したかどうかの検討はほとんど不可能であると思う。
引き続きこの件は検討していく。
何度も言うけれど倫理や道徳なんていうことには私は興味がありません。
道徳的によくないとか道徳的に正しいセックスとかそういうことは宗教家に任せます。
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