不同意性交等罪(悪法)にまつわるさまざまな言論
不同意性交等罪について、問題点がかなりあることが明らかになってきたわけだがそんな中でそれに対しての反論というか、よく言われていることについて検討しようと思う。
これは単なる哲学的な検討なので法律的な、あるいは道徳とか倫理みたいなものではない。
まず、信頼できる人とだけすればよいではないかという話。
夫婦やカップル、信頼できる人とだけやればよい。
これは本当によく言われることである。
これに対していや、カップルや夫婦でも適用されるんですよみたいな反論もある。(もちろんそれは法律的にはそうなのだろう)
しかし、私には信頼できる相手とだけやればよいみたいな話は全く明後日の方向で議論としては無駄でしかないと思う。
人間には行き当たりばったりのセックスだってする権利があるのだから、それを封じてまでひたすらパートナー同士でセックスせよと募るのはどこかの宗教保守🏺ではないか。
あなた方は勝手にそうしていればよいが、そういう宗教に属してない人からすれば(私など)この人たちが言ってることがまるで1ミリも理解できない。
私にとってこの信頼できる相手とだけしたらよいという論は不同意性交等罪への疑義への反論ではなく宗教の勧誘にしか思えない。
さらに信頼できる人とだけやればよいということが可能なのであれば、そもそも不同意性交等罪なんてものは必要がないではないかということである。
各々信頼できる人とだけやっていたらよいという世界観にいる人たちが不同意性交等罪を欲しがる意味はないであろう。
だって自分は信頼できる人としかしないのであれば、不同意性交等罪の"不同意の"被害者になることはない。(男側で言えば加害者になることもない)(また、強姦罪があれば十分であろう)
なぜ不同意性交等罪をそこまで欲しがるのか意味不明である。
私は大丈夫だが、親や家族、友人、他人が被害に遭わないようにこの法律が必要なのだ。世の中には騙されちゃう人がいるからその人たちのためにと言うかもしれない。
しかし、これ自体全く何も話していないに等しい。私は大丈夫であってあの人は同意と不同意がよくわかっていないから被害に巻き込まれるなどという事実そのものがまずどのように示されるのかについて誰も何も語らないからだ。
信頼できる相手とだけしろなどというのは全ての行為に援用でき、契約も何もかも人間関係も信頼できる人とだけ営めば良い、あとで覆されたらそれはお前の見る目がなかっただけなのだ、とか言うのであればもはや社会が混沌を窮める。
私はこの不同意性交等罪が話題になってから、同意とは何かというそのものを考えている。
すると、同意とはそんなに簡単なものではない、ということはわかった。
しかし、私たちは日常的に、相手の同意をなんとなく取っていることが多いためナイーブな人ほどそんなの簡単じゃないかと思う。
私は少なくとも不同意を示すことと、同意を示すことだったら不同意を示すことのほうが簡単であると思う(しかし、どちらも難しいとは思う)
不同意はそれをまず言葉による拒絶と、身体的な抵抗によって確実に示すことができる。
それでさえもプレイの一環であるという主張が出てくるかもしれない。しかし、抵抗の程度によって不同意は明らかにわかる。
しかし、同意は…?弁護士先生でさえ判例が積み重ならないと、と言い出す始末。そのうえ、法案を通すときでさえ多くの法律家が反対をしていた。
そんなものを市井の民衆が適切に取り扱うことはほとんど不可能でしょう。
つまり、施行前も施行後も民衆は全く同じように性行為をし、なぜか全く同じことをしていたのにそれが同意だったり、または同意だったのに後から覆されるといったようなことが起きる。
同意の確認は何をやっても困難である。結局相手が実は嫌だったと言うかどうか、それが全てである。
抵抗がなかったのは迎合反応だとか言われればそれでもうおしまいである。
しかし、狂った世の中になってしまったな。。。