反出生主義への憧憬

私は特段出生主義者でもなければ別に、反出生主義者でもない。

というか私は反出生「思想」はあり得ても反出生「主義」というのは原理的に不可能ではないのかと思う。
というのも反出生主義を唱える人間は必ず出生者であり現実に生存し続けているからである。
どういうことか。
つまり、完全菜食主義者あるところのヴィーガンというのは正に完全菜食であるが故に主義になるのであって肉を食いつつしかしヴィーガンであることはできないということだ。
故に出生者でありつつ反出生主義者であるというのはつまり肉を食いながら完全菜食主義者を名乗るようなものである。

まぁそれには目を瞑った上で反出生主義には二つの視点を与えることができる。
つまり、産む側・産まれる側という話である。
まず産む側に関してはそもそも自分の意思で産むのだからそれは結局は止めようがないし、産みたくない人は産まなければただそれでよい。

他方で産まれてくる側である。産まれてくる側の幸不幸はまさにその人が決めるものであるからどこぞの誰かがそれが出生主義者であれ反出生主義者であれ決める権利はない。

よく言われるのがこんな悲惨な世界に生まれて死ぬのが可哀想だから産むべきではないという論理だが、私はこの論理はとてつもない貧弱な論理だと思う。
これを言う人間は反出生主義者ではあり得ず、消極的出生主義者と呼ぶのが相応しいと思う。

つまり裏を返せば、世界が平和で幸せで何不自由なければ産んでもいいと思っているわけだ。
例えばデザイナーズベイビーよろしく、他の様々な科学技術を用いて生まれた人間が一生幸せで暮らせ、なんなら死や老化や病気を克服した場合には彼らは喜んで出生主義者になるのだろう。

おそらくX上でみられる反出生主義者の9割くらいがもはや単なる消極的出生主義者であると思う。

彼らはもし石油王の子供として転生できるとしたら速攻で転生し、反出生などという選択は捨てるだろうと思うのである。

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