人間の生の希薄化と厳罰化はもしかしたら関係しているのかも。
最近は特に性犯罪で懲役◯×年と出ると、すぐさま軽すぎるという意見が大量に湧く。
前に書いた記事でも考えたが、そもそも私も含め大概の日本人は懲役刑など受けたことがない。受けたことがないので、それが軽いのか重いのかというのは基本的にわからない。
そして、数年が軽いならおそらく数十年でも軽いと言うだろうし、つまり死刑または無期懲役じゃないと満足しないであろうと書いた。
そこから、さらに考えてみてたぶん軽いという人は自分の人生の数年もやはり軽いと見ているのではないかという疑念が湧いた。
数年も刑務所に入らなきゃいけないなんて普通は嫌だ。しかし、軽いと言ってる当人たちにとっておそらく数年とは一瞬の出来事なのだ。
数年もあればいろんなことができる、仕事も恋愛も趣味も、何事かを成し遂げるには十分な時間だ。
そう思ってる人が多ければ1年でさえ重い刑罰と感じるに違いない。
ということは、多くの人々は数年(ないしは数十年)抜け殻のように生きているのではないかと思う。
何も達成せず、仕事もただこなし、恋愛をすることも結婚して子育てすることもない。
いや、そのどれもをしていても単にしているだけでそこに達成感も充実感もない。つまり生の実感がない。
ただただ歳を重ねるだけの人たちが増えているのではなかろうか。
彼らは何もしていないわけじゃない。何かはしているだろう。しかし、それが生の実感には結びついていない。だから数年なんて軽いじゃないかというのはそっくりそのまま自分の人生の数年もまたそうなのである。
もっともっと生の実感が強ければ1分1秒だって惜しいはずだ。ましてや1年などあまりにも空漠とした時間に感じるのではなかろうか。
しかし、書いていてこういう考えも浮かんだ。彼らは犯罪者にそもそもそんな価値を感じていない。それが数年だろうが数十年だろうが、そもそも生きている価値がない。そう考えているのかもしれない。
これはとてもラディカルな考え方ではあると思うが、やはりそれだけではないように思った。
もしそうなら軽いかどうかの比較にはならんだろう、シンプルに死ねでもいいわけである。
被害者は一生苦しむのに比べて、という考えもあるだろう。でも、やっぱりシンプルな罵倒よりも軽さにこだわる人たちが増えたのは、それだけではないやはり人間そのものの生の希薄化が進んでいるのではないかと思っている。
やはり、軽いという時の人間は明らかに自分の数年と照らしている気がする。
こいつの一年と私の一年はちげえんだよ、というニュアンスはほぼ感じられない。
後記
全く関係のない話であるが、私はタブレットやスマホにフィルムを貼るのが下手くそすぎて毎回ミスって陰鬱な気持ちになる。