オキナワンロックドリフターvol.110
質問。
ここをご覧の方で、好きな人に告白しようとしたら、相手に「お前みたいなブスに告白されるなんてぞっとする」と否定され、さらに見ていた周りの人に笑われた方はいますか?
私はある。小学校6年の頃だった。
以来、私は人を好きになってはいけないんだという傷を背負い、後で恋人ができても、自己評価の低さや承認欲求の飢えを見透かされてしまい、随分と蔑ろにされた挙げ句淘汰されてますます心の傷を増やした。
今も、同じ年の男性と話すと、過去がフラッシュバックし、話した後は必ず体調を崩してしまう。
話が脱線してしまったので本来の話題に入ろう。
3月15日の俊雄さん平手打ち事件から、俊雄さんと話すのを避けるようになり、城間家に電話する頻度がめっきり少なくなった。
その代わりに私は俊雄さんにお詫びの品代わりのお菓子と一緒に手紙を書いた。
殴ったことへの謝罪と、その時俊雄さんに抱いた感情を正直に書いた。そして、怒ってはいない。けれど、悲しかったと綴った。
返事の代わりに正男さんから電話があり、正男さんを通して俊雄さんの近況を聞いた。
お酒をやめたことと、少しずつだけれどベースを弾き始めているという近況だ。私はほっとして泣いた。
正男さん経由で俊雄さんの状況を電話にて知り、「城間兄弟も頑張っているから私も頑張ろう」と支えにして大学生活をサバイブした。
そして、夏休みになった8月8日。私は思いきって城間家に電話した。外は蒸し暑く、神社にある大樹に寄りかかり、蝉の音を聞きながら呼び出し音を聞いたのを覚えている。
電話には俊雄さんが出られた。声がハイになった時のふわふわした喋りではなく、通常時のポソポソとした喋りなので私は胸を撫で下ろした。私たちは互いの近況を話した。
俊雄さんは「大学はどうねー」と尋ねられたので、色々大変だけれど学ぶことがたくさんあるから楽しいと返した。俊雄さんは「そうね。いいなあ」と呟かれた。
そういえば、俊雄さんはクラシックの道に進みたかったものの、経済的事情で断念したという話を人伝に聞いた。もしかすると、私は3月のあの日、大学進学が決まったことに浮わついてしまい、知らず知らずのうちに俊雄さんのコンプレックスに障ることを言ってしまったのかもしれないと思った。
俊雄さんはぽつんと、「最近またベース始めたよ。いつか聞かせてあげるね」と呟かれた。私はそれを楽しみにしていると返した。
淡々と世間話やもうすぐ始まる北京オリンピックの開会式の話をした。そのまま、無難に雑談だけすればよかったのに、私は何故かふいに俊雄さんに「ちょっと打ち明けたいことがあるんですがよろしいですか」と言ってしまった。俊雄さんは、「いいよ」と快諾された。
私は携帯を握り締めるように持ち、深呼吸をして、自分の想いを打ち明けた。
「俊雄さん、あなたが好きです」と。
Aサイン時代、美女からのお誘い引く手あまただった人にとって、決して美しくなく若さも失いつつある女からの突然の告白は驚きだったろう。
俊雄さんは少し沈黙された。
しまった。言うべきではなかった。また迷惑だと思われた。過去のつらい記憶が芋づる式に引き出されていき、私の血の気はひいた。
しかし、俊雄さんはこう返された。
「嬉しいよ、ありがとうね」と。
付き合うとかそんなのではなく、気持ちを否定せず、俊雄さんが受け止めてくれた。
それは私にとって、今までの傷を回復させる特効薬になった。
1997年10月26日。ニュースステーションの特集で見て以来、ずっと好きで気がかりだった人に思いの丈を打ち明け、それを受け止めてもらえたことが嬉しかった。
私はしばらくありがとうが喉につかえて言えなかった。
喉の奥に詰まった見えない砂利を取り払い、どうにかありがとうを言えたものの、照れなのか脱力感からなのか、それは日本語を覚えたての外国人のように奇妙な抑揚がついてしまった。
俊雄さんはこう続けられた。
「これからもよろしくね」
「はい!」
電話を切った後、しばらく泣いた。
好きな人に好きという感情を否定されない心強さというのはとても心の支えになったからだ。
俊雄さんは、私の中にある空っぽのバケツさながらの満たされなさに気づいて憐れんだから否定しなかったのかもしれない。けれど、そうだとしても、ずっと否定されたり、雑に扱われてきた人間にとって俊雄さんの優しさにはとても救われたし、今もなお、私の中でこの日の出来事は暖かな光となっている。
私は駅の洗面所で顔を洗い、持参したウェットタオルで顔を拭くと家に帰るために在来線の電車に乗った。
勇気を出して行動したらまた違う勇気が芽生えた。
あることにチャレンジしようと思い付いたのである。
それは、パルミラ通りで『コザクラ』を営むマサコさんが当時運営していた『コザ漫遊国』というポータルサイトにて告知されたものだった。
『コザ文学賞』というたった一度だけ行われた文学賞である。
当時の募集要項を引用させていただく。
【募集内容】
コザをテーマとした、印刷媒体未発表作品に限る。
優良作であっても、テーマ外の作品は、選考外とする。
ジャンルは不問だが、より幅広い層に作品を読んでもらうため、作品傾向はてぃーだの基準に準ずること。また今回の募集部門は、フォトエッセー部門およびショートストーリー(ドキュメント可)部門の、二部門となる。
【賞金など】
フォトエッセー部門 最優秀5万円・優秀3万円、その他の入賞作に記念品。
短編部門 最優秀10万円・優秀5万円、その他の入賞作に記念品。
以上引用終わり。
賞金10万!というのも気になったが、この告知はコザについてなんらかのことを書いて残したいという欲求を疼かせた。しかし、何を書くべきか。書いても陳腐にしかならないのではないかと悶々として2ヵ月が過ぎた。しかし、もたもたしていたらあっという間に締め切りだ。
書くなら今だ。バイトもしていないし。聖歌隊の練習はお盆明けからだ。今のうちに書こう。
けれど、何を?
帰りの電車の中で私は悶々と何を書けばいいか考えていた。
すると、頭の中に“I shot the sheriff”が流れてきた。ボブ・マーリーでもエリック・クラプトン版でもない、2003年~2004年の短い間に聴いた“I shot the sheriff”、そう、ジミーさんがいた頃のJETのだ。
ジミーさんについて書こう。
私は家に帰ると直ぐにパソコンを立ち上げてwordで文を書いた。
夕飯も食べず、寝る時間を削って、記憶の中にあるジミーさんの想い出をかき集めて、2003年のコザの街を思い出せるように、手持ちのJETの音源を聴き、それでも足りない時はYouTubeでJETの映像を探して観ながら書き進めては消し、また書き進めては消しと亀の歩みながらもジミーさんのいた頃のコザを描いた。
第一稿が出来上がったのはお盆前だった。
私は、2004年からの付き合いであるくじゃく姐さんに連絡し、コザ文学賞という公募にエッセイを出すから文章を添削してもらえないかとメールを送った。
くじゃく姐さんは快諾してくださった。
数日後、進研ゼミの赤ペン先生並みの添削をされて第一稿が返ってきた。
特に指摘されたのは文章の固さと、勢いで書くせいなのか、てにをはが乱れるところだった。
私はくじゃく姐さんの懇切丁寧な指導を受けながら文章を推敲し、3回目でようやくOKが出た。
そして、もう1度見直して、細かいところを書き直し、完成した原稿を公募の主宰である『コザ漫遊国』の専用メールアドレスに送信した。
『コザ漫遊国』の『コザ文学賞』専用ブログに私のエッセイが掲載されたのは、8月15日。ちょうどお盆の最終日だった。
(オキナワンロックドリフターvol.111へ続く……)
(文責・コサイミキ)