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なぜ君が逝かなければならないのか

今日、突然、10月11日に中学・高校時代(僕の出身校は中高一貫男子校だったので)の友人が転倒事故で亡くなったとの報を受けました。

16日が通夜、17日に告別式という異様に遅い日程から類推すると、おそらくは検死(司法解剖)になったのだろうと想像します。ドラマ「アンナチュラル」で広く知られるようになりましたが、遺族にとってはつらい日々を過ごしておられることでしょう。心が痛みます。

僕にとっても、とてつもない衝撃でした。記憶の中の彼と、彼が死んだという事実がどうしても結びつかない。まだ59歳になったばかりというのに。誰よりもアクティブで、誰よりも健康的で、他の人間が死んでも彼が死ぬことなどありえない、そう思わされるような彼が。

共通一次(当時)で失敗して落ち込んでいる僕を、「お前ができなかった試験、他の人間ができるわけないやんか。何しょげてんねん。そのままの志望校でいけや!変えることなんか、あれへんて!」と励ましてくれた彼が。

特に親しくしている友人グループに属していたわけでもない僕に、わざわざこう言いに来てくれる、本当に優しい、気遣いのできる男でした。

同じ中高を過ごした仲間のうち、すでに3人が病気で逝きました。また一人が・・・やりきれないです。

僕は、悲しい知らせに接するたび、同じ問を繰り返してきました。

「なぜ君がそちら側に行き、なぜ僕がこちら側に残っているのか?」

「僕が彼らよりも長くここにいることが、果たして許されていいのか?」

答えは・・・無い。それは神のみが決めることなのでしょう。分かってはいても、どうしても理不尽に震える気持ちを抑えられない。そんな時、口にするのはこの言葉かもしれません。

Requiem æternam dona eis, Domine
Et lux perpetua luceat eis:
Requiescat in pace.
Amen.

奇しくも東京で彼の葬儀が行われる翌日、大阪で僕はフォーレのレクイエムの演奏会に行きます。

彼のために、祈ってきます。




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