大学入試で志望校を変えたこと
これも何かの機会なので、書いてしまおうと思います。
前の記事で、僕が共通一次で失敗したこと、そしてその結果を受けて直前に志望校を変え、最終2点差で合格したことを書きました。
もう42年も前のことですし、この際はっきり書いてしまいますが、僕の第一志望は京都大学でした。そして、合格して進学することになったのは、大阪大学でした。
どうして受験校を変えたのか、そしてそれが(結果だけ見れば)成功したみたいになったのか、それを語るためには、当時の大学入試がどうだったかということを語る必要があります。
当時(1982年)、大学入試の共通試験は「共通一次試験」の時代で、全受験生に5教科7科目の受験を強いる、今のセンター試験とは比べ物にならないくらい過酷なものでした。受験生は、理系の学生でさえ「社会」を2科目受けなければならず、文系の学生はまた逆に「理科」を2科目受けなければならなかったのです。それこそ、(前記事に引用させていただいたような)東京藝術大学の受験生にとっては、およそ地獄の仕打ちのようなものだったでしょう。
僕は理系の受験生だったのですが、まさに共通一次で失敗したのが「社会」、それも「政治•経済」だったのです。
実は僕はこの「政治•経済」が得意で、模試では常に9割をキープ、むしろ得点源にしていたぐらいでした。もう1科目の「日本史」の方が常に点数は芳しくなく、こっちの方が不安材料。なので、試験当日も「政治•経済」から解き始めました。
その時の感覚は、これだけ年月が経ったのにはっきり思い出すことができます。ホントは思い出したくもないのに、そして問題の内容も具体的には何も覚えていないのに、感覚だけを思い出すのです。
その感覚とは•••まるで自分が異世界に足を踏み入れたの如くのものでした。問題を読み進めて行くうちに、僕の体からすーっと血の気が引いて行くのがわかりました。
なんと、「全く答えがわからな」かったのです。
その年は共通一次が始まって4回目の年で、「政治•経済」「倫理•社会」の同時選択が禁止された2回目、という共通テストの黎明期でした。なので、おそらくは問題の傾向の振れは今よりもあったかもしれません。その年の問題は、暗記した知識だけでなんとかなるようなものではなく、特に経済分野でそれまでとはかなり毛色の違った出題がされたのでした。
僕は、わからないまでもとりあえずは全てマークする、という戦術を取りました。多分、この脳みそからは逆さにして叩いてみても正解は出てこないだろう、そんな有り難くもない確信だけがありました。そして、できるだけ早く「日本史」に移り、合計2時間の試験時間をできるだけ残して「政治•経済」に戻ることにしたのです。
「日本史」はいつも通りにこなせたので、多分その時なんらかの理由で僕の脳が障害を受けたわけでは無いと思います。実際、「日本史」の点数は当初の目論見通りでしたし。でも、もう一度「政治•経済」に戻って来た僕の頭は、やはり「わからない」「答えに自信が持てない」を繰り返すばかりでした。
「社会」が終わった時の、呆然感は半端なかったです。
そのあと、気を取り直して残りの2科目を乗り切ったのですが、結果は惨憺たるもの。特に「政治•経済」は、模試では一度として取ったことがない60点台に終わりました。目論見から20点以上を失った格好です(それでもよく踏ん張ったとは思いますが)。
実際、その年の「政治•経済」は「社会」の中で最も平均点が低かったですから、みんな苦労したのだと思います。でも、前年より20点も低くなったわけでなかったので、結局は自分の勉強が足りなかっただけ、なんでしょう。でも、事ここに至って、そんなこと言ってもどうしようもありません。
今もそうでしょうけど、自己採点を河合塾のシステムに高校から登録し、この時点での合格可能性の判定が出ることになります。当然、それは厳しいものでした。しかも、僕はそれまでの模試の傾向から、一次先行、二次逃げ切りのプランを描いており(河合塾の京大オープンでは、この戦略でA判定を叩き出していました)、となると、この時点でその目論見は完全に断たれたわけです。
その後1週間、僕は悩みに悩みました。その時、わざわざ声をかけに来てくれたのが、前に記事にした友人でした。彼は、平均点の急激な低下を避けるため、採点操作が行われる可能性すら口にしてくれました。
でも、実は僕には、京都大学の二次試験で逆転を狙おうとすると、どうしてもネックになることがありました。それは•••
「京都大学の数学を解ける自信がなかった」のです。
これは多分、京都大学を志望したことのある人なら、大きく頷いてもらえるのではないでしょうか? とにかく「京大の数学」の独特さは、国立大の中でも群を抜いていて、特に論証を求める問題のレベルの高さは正に「半端無い」。しかも、制限時間2時間で6問と、出している当の京大の教授が、「鼻から全部解けるとは思っていない」と公言して憚らない代物。
しかも、当時、京大は二次の配点よりも一次の配点の方が高く(一次700、二次500の1200満点)、社会に至っては圧縮されずにそのままの点数が加点されることになっていたわけで••ざっくり言えば、一次で取り損なった20点を挽回するためには、「この」数学を1問余計に解く必要があることになり••それは僕には絶望的なことのように思われたのでした。
その時真剣に考えたのが、東京大学に志望校を変更することでした。というのも、その時の東大は、共通一次の点数を100点に圧縮しており、二次が400点の合計500点。20点の取り損ないはここではたった2点に圧縮され、一発逆転を狙うなら、こちらの方が可能性が高いように感じたからでした。
その一方で、大阪大学は一次600点、二次500点の合計1100点。ここでは、一次は国語だけが圧縮されず、他は全て1/2に圧縮されるので、京大よりはまだまし。とはいえ、1点差に多数がひしめく当落線上での10点差は厳しいといえば厳しい、でも••僕はこう思ったのです。
「阪大の数学なら、なんとかできるかもしれない」
おそらく、今もこの傾向は変わっていないと思うのですが••阪大の数学は、全部で五問。そして、微積が必ず出ることと、問題が指し示す着地点が明確で、全く歯が立たないことが少ないのが特徴(これは東大も同じ、と思いました)。これなら、残された1ヶ月半、似た傾向の問題を徹底的に演習すれば、活路を見出せるかも•••。
そして、僕は、過去20年間の阪大と東大の数学の問題を全て見直した上で、この自分の判断が間違っていないと確信し、最終阪大に願書を提出したのです。
本番の数学で、僕は実に五問全部を完答することができ、それが結果として2点差で自分を救うことになったのですが••でも今から思えば、それは一次と二次の間の1ヶ月半の勉強の成果でもなんでもなく、ひとえに「自分は阪大の数学なら解ける」という根拠のない自信のおかげだったのではないか、という気がします。
そう、受ける前から勝負はついていたのです。僕の心のあり様、ただそれだけで。
もっというなら••失敗した一次の「政治•経済」だって、その時の心の持って行き方次第では、もっと傷を浅くできたのかもしれないのです。
このことで、神は僕にこう言いたいのかもしれないです。
「人生なんて、気の持ち方次第だよ」
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