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『利口な女狐の物語』

やっと書くことができる。

nuricoさんのテキストで安部公房の『良識派』を読んだ時から、このテキストを書こうと決めていました。

「良識」に対するのは「野生」でしょうが、『利口な女狐の物語』はまさに野生のお話。中欧モラヴィアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクによるオペラ。

そう、オペラです。楽劇。
馴染みのない人には敷居が高く感じられるかもしれませんが、ぼくは大好き。もし無人島に持っていく音楽を何か一つ選べと言われたら、この音楽は選択肢に筆頭になるかもしれないくらい。


どうせ長文になるので、安部公房の『良識派』も載せておきますか。

イソップ物語やグリム童話は、人間と社会についてのあらゆる寓意に満ちている。社会のゆがみ、人間の傲慢や無知など。これに限らず、人は昔から直接的に表現することがはばかられることや、面とむかって言えないことを、巧みにたとえ話に託してきた。

 昔は、ニワトリたちもまだ、自由だった。自由ではあったが、しかし原始的でもあった。たえずネコやイタチの危険におびえ、しばしばエサをさがしに遠くまで遠征しなければならなかった。ある日そこに人間がやってきて、しっかりした金網つきの家をたててやろうと申し出た。むろんニワトリたちは本能的に警戒した。すると人間は笑って言った。見なさい、私にはツメもなければ、イタチのようなキバもない。こんなに平和的な私を恐れるなど、全く理屈にあわないことだ。そう言われてみると、たしかにそのとおりである。決心しかねて、迷っているあいだに、人間はどんどんニワトリ小屋をたててしまった。

 ドアにはカギがかかっていた。いちいち人間の手をかりなくては、出入りも自由にはできないのだ。こんなところにはとても住めないとニワトリたちがいうのを聞いて、人間は笑って答えた。諸君が自由に開けられるようなドアなら、ネコにだって自由に開けられることだろう。なにも危険な外に、わざわざ出ていく必要もあるまい。エサのことなら私が毎日はこんできて、エサ箱をいつもいっぱいにしておいてあげることにしよう。

 一羽のニワトリが首をかしげ、どうも話がうますぎる、人間はわれわれの卵を盗み、殺して肉屋に売るつもりではないのだろうか? とんでもない、と人間は強い調子で答えた。私の誠意を信じてほしい。それよりも、そういう君こそ、ネコから金をもらったスパイではないのかね。

 これはニワトリたちの頭には少々むずかしすぎる問題だった。スパイの疑いをうけたニワトリは、そうであることが立証できないように、そうでないことも立証できなかったので、とうとう仲間はずれにされてしまった。けっきょく、人間があれほどいうのだから、一応は受け入れてみよう、もし、具合がわるければ話し合いで改めていけばよいという『良識派』が勝ちをしめ、ニワトリたちは自らオリの中に入っていったのである。

 その後のことは、もうだれもが知っているとおりのことだ。


『利口な女狐の物語』について、Wikipediaはこんなふうに書いています。

動物が大勢登場し、一見民話風あるいは童話風の外観であるが、その中に死と再生を繰り返す生命の不思議や自然への感動、あるいは畏怖の念が表現されている。

まさにそのとおり。


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あらすじは、こんな感じ。


嵐を予感させる音楽で幕が開ける。

銃を持って森番が登場。休憩をしていると蚊がやって来て血を吸おうとし、カエルがやって来て蚊を食べようとし、子どものビストロウシュカが出てきて、カエルに驚く。

「ママ、ママ、これ(カエル)は食べられるの?」

機嫌を良くした森番は、ビストロウシュカを捕まえて家へ連れ帰る。

ビストロウシュカが連れ去られた後、秋空にトンボがパントマイムを踊る。

(ビストロウシュカは主人公の女狐の名前です)


森番の家にはたくさんの動物が飼われていて、人間化された秩序によって支配されている。犬のラパークがビストロウシュカにセクハラをしようとし、拒絶されて噛みつかれる。騒ぎに驚いて出てきて森番がビストロウシュカを折檻し、ビストロウシュカは嗚咽しながら眠りにつく。夜の闇が優しくビストロウシュカを包む。

そして夜が明ける

挫けないビストロウシュカは演説をぶつ。

 ちょっと!メンドリねえさん達!
 何てご主人様だろう!
 あいつは自分の金銭欲のために、
 ねえさん達を利用しているだけよ。
 あいつは、人間に買収されちゃったのよ。
 お嬢さんたち!おねえさんたち!
 古い体制は一掃しましょう!
 新しい世界を創るのよ。
 みんなで平等に、
 喜びと幸福を分かち合う世界

理解をしようとしないメンドリたちは嘲笑し、激昂したビストロウシュカは鶏たちを打ち殺す。再び森番が登場して銃を撃ち放つが、ビストロウシュカは逃亡する。

森の情景
ビストロウシュカは穴熊の家をうまく取り上げてしまう。

パーセクの居酒屋。
人間達の戯れ。森番が片想いの校長をからかい、校長は逃がした狐の話で応酬する。


森の小径。
森番はビストロウシュカをテリンカ(校長の片想いの相手)だと勘違いし、牧師は夢想に耽る。ビストロウシュカに気がついた森番は銃を撃つが、またしても逃げられる。


再び森の情景
ビストロウシュカは雄狐ズラトフシュビテークと恋に落ちる。雄狐は彼女を散歩に誘い、ビストロウシュカは自分の身の上を話す。雄狐はビストロウシュカを食事に誘い、ウサギを調達に出かける。

月の光を浴びて、恋の予感に震えるビストロウシュカ。

あたしって、どこがそんなにきれい?
ちょっと生きるのが楽しくなってきた!
なんだか魔法のように美しくて、不思議な想い!  

食事を済ませたあと、彼は彼女に熱烈な愛の告白する。ビストロウシュカは受け容れ、ふたり巣穴へ消える。

トンボがパントマイム。
カケスがビストロウシュカのふしだらを森中に触れて回る。
泣きながら巣穴から出てくるビストロウシュカ。
間髪入れずキツツキの牧師役で結婚式、婚礼の合唱、どんちゃん騒ぎ。


波乱の予感
鶏の行商人ハラシュタ登場。ハラシュタは森番に、テリンカと婚約をしたと話をする。森番は狐の足跡を見つけ、罠を仕掛ける。

ビストロウシュカと子狐たちが登場。抜かりなく罠に気がつくビストロウシュカと子狐たち。ハラシュタは狐たちを捕まえようとするが、ビストロウシュカにからかわれている間に子狐たちに鶏を食べられてしまう。激怒したハラシュタは銃を撃つ。三度目の銃声でビストロウシュカは落命する。

パーセクの居酒屋。
森番はビストロウシュカの死を察する。校長はテリンカの結婚に打ちひしがれ、居酒屋の妻はテリンカが新しい襟巻きをしていたと話をする。

世界の無常に哀愁を覚える森番。その眼前に、混沌からなにかが生まれつつあるかのような情景。森番は、若かりし頃の幸福を回想しつつ眠りに入る。

森番が気がつくと、傍らに若い女狐がいる。捕まえようとするが、捕まったのはカエルだった。「いままでどうしていたんだ?」と問う森番にカエルは返事をする。

「それはぼくじゃないよ。ぼくのおじいさんだよ...」

終幕。


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これだけのストーリーが、たった(?)1時間半ほどで展開されてしまいます。恋の場面など、もう少し浸っていたいと思うけれど、立ち止まらない。イタリアあたりのオペラなら、たっぷり情念のアリアを聞かせてくれるところが、そういった「間」というか「立ち止まり」がほとんどないのです。

語られるのは情念より情景。
語るのは歌手よりむしろオーケストラ。
それが、この『利口な女狐の物語』という歌劇です。

そして、目まぐるしく移り変わっていくストーリーの終着点で、ヒトとキツネとカエルの三者がそれぞれのサイクルで再開する。

ヒトは年老い。
キツネは子になり。
カエルは孫になっている。

それぞれにそれぞれの〈円環〉があって、それぞれの円環が多様に混淆している――そう感得したときに浮かぶ感慨に名前を付けるなら、“畏敬”だろうと思います。

一神教的な「畏怖」と似ているようで違う多神教的な「畏敬」。
西洋的な「畏怖」と東洋的な「畏敬」と言い換えてもいい。


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主人公のビストロウシュカの生涯を不運な生涯だと捉えることもできるでしょう。

なにせ、小さい頃は人間に捕まり、仲間であるはずの動物たちからもハラスメントを受け、逃げ出して自由をつかんだはずなのに最期は子を守ろうとして撃ち殺されてしまうのですから。

けれど、この音楽はそういった印象を与えません。おのずと畏敬の念を呼び起こす自然の一部としてのビストロウシュカは、自然の一部でありながら、自身に正直に生きて、死んでいった不運で不穏であったかもしれないけれど、自身の〈生〉を生き切った

その〈生〉のありさまを呼ぶのに、〈しあわせ〉という言葉が適当だろうとぼくは思います。


もうひとつ触れたいことがあります。ストーリーにでてくるテリンカのことです。実はテリンカは、役柄としては登場してこない。劇中の人物に語られるだけの存在。

人間の男たちから恋慕されるテリンカですが、これはビストロウシュカの「影」といった印象を持つ。人間の通常の世界観からすれば、キツネであるビストロウシュカの方が影になるのでしょうが、『利口な女狐の物語』では、そこが逆転をしている。


「影」であるテリンカは、「表」であるビストロウシュカが最期を迎えたときに幸福を得ます。

結婚をし、新しい襟巻きを手に入れたから幸福とは言い切れないけれど、そこに「幸福」を想定するのが通常の「スタイル」というものでしょう。

『利口な女狐の物語』は、この「スタイル」に問題を提起しているようにも感じます。結論めいたことは何ら提示をしない。それはビストロウシュカの〈生〉についても同じですが、ビストロウシュカについては、結論を語られなくてもしっかりとした――けれど、言語化するのは難しい――感触を得ます。が、テリンカついてはどう考えれば、いえ、どう感じればいいのかもよくわからない。困惑を感じます。

わからないことに無理に結論を出すことはないけれど、この「困惑」は大切なことのように思います。文明を発展させたぼくたちの、自然に対する向き合い方を問われているように感じるからです。

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