『きみはいい子』
昨日に続いて、映画のレビュー。
昨日のテキストではどうも衝撃を吐き出しきれなかったみたい。なので、同じく子どもが主役、、、あいや、今回紹介したい『きみはいい子』は、映画の主役そのものは子役ではないですね。大人の子どもへの接し方という点で、『だれのものでもないチェレ』とは、正反対な映画。
あいや、あいや、正反対と言い切ってしまうのは、違うな。
前半は似ているけれど、後半が正反対になる。
『だれのものでもないチェレ』は、起承転結も何もないシンプルな作りの映画でした。ずっとほぼ同じテーマ——起承転結でいうと「承」——続いて、最後のスッテンと「転」んで、「結」びもへったくれもなく終わってしまうといったような構成でしたが、『きみはいい子』もまたシンプル。こちらは「承」と「転」だけ、という感じ。
ふたつの「承」にそれぞれ「転」がある。
うまく子どもと接することができない大人(「承」)が、そのことを自覚して子どもに優しく接しようとし始める(「転」)。
「し始める」で、映画は終わってしまうので、「結」はない。
『きみはいい子』の方は「救い」があります。
それも、人間による人間への「救い」が。
だから、鑑賞をオススメしたい。
ごくごくプリンシパルな「救い」です。
だから、シンプルな方がずっとよく伝わっている。
予告編の中ほどで、母親が言います。
「私があの子を優しくすれば、あの子も他人に優しくしてくれるの。子どもを可愛がれば、世界は平和になるわけ。」
小賢しい知恵をつけた大人からすれば、世の中そんなに単純ではないと言いたくなるでしょうが、とんでもない。このプリンシパルでシンプルな原理が蔑ろにされてしまうからこそ、世界は平和ではなくなる。
ほんとうに、たったこれだけのことが守られればいい。ところが、たったこれだけのことが、なぜか、難しい。
『だれものでもないチェレ』にせよ、『きみはいい子』にせよ、「起」がないという、示すことができない。それがわからないからです。
プリンシパルでシンプルな原理は、これまた単純にひっくり返せば、
抱きしめられたい。
子どもだって。
おとなだって。
という映画のキャッチコピーになる。
子どもの頃に十分に抱きしめてもらえなかったから、大人になっても子どもを抱きしめてあげることができない。そうしたいと、たとえアタマでは考えても〈からだ〉が動いてくれない。
そうした「負の連鎖」は、どこから始まったのかがわからない。
わからないのは、調べようと思わなかったからでしょう。そうした視点で歴史を眺めることをしてこなかったから。人類の歴史は進歩の歴史であると、誰もが疑いもしなかったから。
確かに、進歩と繁栄は事実ではある。
が、全面的な真実であるかどうかは別問題です。
一面では、歴史は「負の連鎖」でもあったのではないか。その【シワヨセ】が子どもに行く。【シワヨセ】を受けた子どもは、生き方がわからなくなって生きづらくなってしまっている...。
話が大袈裟になりました。
大袈裟の続きでいうと、『きみはいい子』は、ひとり一人が歴史の【シワヨセ】をどれほど受けているかどうかを測るリトマス試験紙のようなものだと言えるかもしれません。
日本人にとって、という限定がつくかもしれませんが。
ハンガリーの人たちには、もしかしたら、『だれものでもないチェレ』がそういったものなのかもしれません。
『きみはいい子』を観てみて、自分の心がざわつくようなら【シワヨセ】を喰らっていると言っていい。
ざわつきのない純粋な悲しみが感じられるなら〈しあわせ〉な人だと思います。
もし、なにも感じられないなら、危ないかもしれない。
「ふ~ん、そうだよねぇ~」
「こんなの、ふつうのことだろう」
・・・くらいにしか感じられないのなら、【シワヨセ】を喰らいすぎて心の弾力性が鈍くなっている可能性が高い。
試験紙的な意味では危険な映画と言えるのかもしれませんね。
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