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スピリチュアルな読書

最近じっくりと読んでいるのが、この本です。
『野生の哲学~野口晴哉の生命宇宙』(永沢哲著)

野口晴哉。野口整体といわれる身体技法の創始者。

本書は、はっきりいって、思いっきりスピリチュアルです。ここに記述あるいは引用されているようなことを、どれほどの人が信じることができるかといえば、間違いなく少数でしょう。

例えばこんな記述。

「催眠状態には三段階あるが、“わきが”なんかは、第一段階で、嫌な匂いを、よい匂いにすりかえてしまうことが出来る〔・・・〕
 ところが、だんだん睡眠状態が深くなって、第三段階に入ってしまうと、こちらの思うままに、魂を自由に飛ばすことが出来るんだ。
 ある人をそういう状態にして、自分の実家のある関ヶ原の家を見てこいといったら、“寒い、寒い”と言うんだ。“どうして寒いのか”と訊くと、“雪が降っている”と言う。こちらは天気なのに可笑しいと思って、電話をかけたら、やはり雪が降っているということだった。
 また、ある日のこと、二つの部屋を襖で仕切って、片方の部屋に人形を寝かせ、片方の部屋にある女の人を寝かせて、深い睡眠状態に誘導してから彼女の魂を人形に移した。
 それを確かめるために人形の腕に針をさすと、“痛い”と言う、そして針を抜いたらトタンに、血が出たんだ。
 それを見た瞬間、ハッとして
”こういうことは、魂を冒涜するものだ”と思った。僕はそれきり、一切の実験をやめてしまった」 
(『朴葉の下駄』67~69ページ)

これがファンタジー小説やライトノベルなんかだと、そういうものとして受け止めることはできるでしょう。でも、魂を移した人形から血が出たなんてことがほんとうに現実にあったと言われたら? 信じることはなかなか難しいことだと思われます。


こんなのもあります。

 ただ夢を見た人の中で、全然、第五が弛んでいない人がおりました。その人の夢は、いつも、現実にあるのです。そういうのは、やはり、予知能力とでもいったらいいのでしょうか。私の長男が生まれた当時でしたが、家内が、電灯の笠が落ちてきた夢を見た。家内は上下型ですから、本当のことより、夢の方が真実なのです。ご馳走を食べるより、ご馳走すると言われた方が、ご馳走を食べたような感じになるのです。現実の旨い、まずいのは味では判らないのです。そういう特殊体癖ですから、夢が本当なのです。そこで、私は落ちるか、落ちないかを人に調べさせ、更には私も調べたのです。夜になって、子供をその下に眠らせて、ヒョッと家内の頭を触ってみると、きちんとしているのです。夢を見ているというそれがない。そこで私は警戒して、子供を移し、机をその下に置きました。昼間あれだけ調べて何でもなかった重い電灯が、それから十五分ほどあとに、風もないのに、ミリミリッと音がして、バッシャンと落ちてきました。鉄の豪華なもので、赤ん坊などは即死するかもしれないものでした。それ以来、私は第五が、硬くもならず、柔らかくもならない人が夢を見たというのは、夢ではなく予知能力として扱います。人間の本能には、そういう働きがあると思うようになりました。
(『体運動の構造1』71~72ページ)

「ご馳走を食べるより、ご馳走すると言われた方が、ご馳走を食べたような感じになる」といったタイプの人が存在していると言われれば、それはそうかもしれないと思う。でも、そのようなタイプの人には夢のほうが現実で、予知夢を見ることがあるなんて言われると、どうか? 

ちなみに「第五」というのは、頭部第五調律点といわれる身体部位で、後頭部の凸凹しているあたりのことを指します。

「上下型」というのは、Wikipediaの記述を参照してみてください。


人形から血が出るなどといった現象は、現実にあり得るとも考えられません。また、夢に見たことが現実になるという現象はきわめて稀な確率で偶然としてありえるかもしれませんが、その偶然の成立が前もって観察できるといわれてしまうと、“眉に唾”ということになるでしょう。

こうした現象は、たとえ成立するものであったとしても科学的とは言えません。万人が再現することが不可能だからです。こうした現象は、特殊な能力を持つ限られた人間が“召喚”することができるものだとでも言うしかない。


でも、まったくのデタラメかというと、ぼくはそうは思っていません。全面的に信用するのかと言われれば答えに困りますが、現実にあったとしても不思議ではないくらいには思っている。

理由は明確です。2つあります。

ひとつは、そうした現象を“召喚”したとされている野口晴哉が、彼自身の体験と観察を体系づけた技法を編み出し、その技法を修行する者がいて、その鍛錬が現実に効果があることを、ぼく自身がその者から体験していること。

もうひとつは、その技法は簡易なところであるならば誰にでも習得が可能であること。これもまた、ぼく自身の体験から言えること。


簡易なところとは、こんなようなところです。

 野口晴哉は、生命や病、治癒や健康について、とてもユニークな見方を持っていた。(中略)
 たとえば、風邪にかかったとき、ふつうは風邪薬を飲んで温かくし寝ることを考える。(中略)ところが、野口晴哉にかかると自体は全く逆だ。ショウガやネギや辛いものをとるのはいい。水分の補給も大事だ。けれども、それだけではない。風邪にかかったことを喜び、熱が上がるのを楽しみにし、上がりきるまで、自分の好きなように活動するのがいいというのだ。歌いたければ歌い、歩きたければ歩く。働きたければ働く。もちろん眠りたければそうする。
 どれくらい熱が出るかは、どれくらい体力があるか、からだの充実具合が示している。三十八度出たらまあまあ。四十度出せるようならかなりよい。熱を下げるための方法を講ずることは御法度で、(後略)

風邪への天邪鬼ともいえる対処法。これはやろうと思えばできなくありません。やってみること自体は容易なことです。でも、「やろうと思うこと」が難しい。「ふつう」ではないからです。「ふつう」が試みることに立ち塞がってしまいます。

風邪やインフルエンザは、ウイルスなどの病原体によって引き起こされる。ゆえに病の発生原因である病原体へ対処する。その際、その分野の専門家である医師の診断を仰ぎ、科学的に効果があると実証されている薬を服用する。この考え方は「正しい」し、それが「ふつう」の考え方になるのはごく当然のことだと言えます。

しかし、その「ふつうの正しさ」は「ふつうではない正しさ」を排除するものではないはず。

身体には免疫力といわれる能力が備わっていて、その能力を十全に発揮させることができれば、通常の風邪はもちろんインフルエンザといえども、身体は十分対処できると考えなくはない。どれほどインフルエンザが流行しても100%の人が人間が罹患するわけではないという事実から、上の考え方を類推することはできます。

現在の医学でもまだ風邪やインフルエンザの病原体に直接作用する医薬品は開発されておらず、身体の持つ免疫力を前提としたワクチンを接種する程度のことしか医学でもできない。ワクチン接種は、特定のウイルスに対する免疫力を前もって鍛錬しておこうとするものであるわけだから、全般的に対処できる方法があるのであれば、それに越したことはないはず。

野口晴哉の方法は、その全般的な対処方法だろうと推測できます。ただ、科学的な検証は得られていない。というのも、全般的な免疫力を測定する方法が現在の科学にはまだ存在しないから。そもそも「全般的」という概念自体が、個別に原因を追及して個別に対処する科学の分析的知性とは相容れないものです。

でも、科学とは相容れないからといって、「全般的な免疫力」というべきものが存在しないとは科学的にも言えません。直観的には存在すると言いたい――少々スピリチュアルな響きを帯びるけれども――のが、人間というものではないかと思うわけです。


これは突き詰めれば、人間観および生命観の問題です。

人間や生命はどれほど複雑であろうとも機械にすぎないという考え方が一方の極点であるとするならば、生命は人間の知力では計り知れない神秘であると考えるのは、もう一方の極点でしょう。真実というものがあるとするならば、それら極点の間に存在するはずです。

有用性という尺度で見るならば、機械論のほうが有利なように思えます。科学技術が立証してきた有用性への感触とでもいうべきものが、ぼくたちの「ふつう」を支えている。でも、この感触は表層的なものにすぎないという感触を、同時にぼくは感じてもいます。

表層的なものの裏側にあると感じるのは「依存」です。医学への依存。科学技術への依存。たしかに科学技術には、ぼくたちの期待に応えてつづけてくれたという大きな実績はあるけれども、それは同時に、科学や技術への依存を促してきたともいえる。人間がもともと備えている免疫力や生命力を鍛えることをしないでも、人間は生き延びることができるようになりました。

このことは、「進歩」「発展」と称するに値します。「依存」するに足ると言ってもいい。


風邪に罹患すると熱が出る。でも、実際のところは、必ずしも動けないわけではない。もちろん動くことが困難な場合もあります。これは人によるし、時と場合による。でも、「ふつう」は、動くことができるかできないかの判断を体温計によって計測される客観的な数字によって判断する。

その判断は誤りだとは言えません。

さらに、こうした客観的基準による判断には大きな利点があります。自分自身で判断しなくていい、という利点です。イジワルな言い方をすれば「言い訳ができる」。体温計が38℃を表示すれば身体は異常な状態だと客観的に言うことが可能です。正常か異常かの判断を自身の感覚ではなく技術に委ねることができるし、その「依存」を誰しもが「ふつう」だと考えているわけですから、「言い訳」が成立します。


が。

たとえ「言い訳」が成立するとしても、「言い訳」に依存をしているようでは成長は望めない――この言をスピリチュアルだという人はいないでしょう。

「言い訳」を全く認めないような「精神論」は困った態度ではありますが、同様に、「ふつう」がそうであるからといって、そこに「依存」する態度もあまりよいものではなかろうと思っています。たとえそれが「客観的」であったとしても。


昨今は、自分自身を信頼することの大切さが方々で言われるようになっています。自己啓発がブームになっているのも、その現れだといっていいでしょう。自分自身を信頼することは、本当に、何よりも、大切なことだと思います。

ただ、方法論が確立しているとはいえないように思う。というより、方法論を客観的に確立させるということがそもそも不可能な領域が「自分自身を信頼する」ということでしょう。

そんななかで「自分自身の身体を信頼する」ということは、100%とは言えないし、言ってしまうとそれこそスピリチュアルですが、逆にいえばスピリチュアルになっていってしまう可能性を孕んでいるからこそ、着実な方法なのだうと考えています。


身体は個別的です。同じ原理で作動していると推測されるにもかかわらず、一人一人微妙に違う。ある人には38℃は高熱でも、ある人には平気だということは普通にある。また同じ人の38℃でも、時と場合で平気なときとそうでないときも普通にあります。

同じ身体のようで、人それぞれ、時と場合で違うのが、ぼくたちの身体というもの。その微妙な違いを自身の感覚に信頼をおいて判断していく。そうやって感覚を高め、着実さの足場を踏み固めていけば、常人の常識では信じることができないような現象を“召喚”することの可能性が開けてくる――と言えなくはありません。断言もできませんが。


紹介しておきながらこう言うのもなんですが、本書をおすすめはしません。一般常識からはあまりにかけ離れているからです。一般常識を住処にしている人からすれば、本書はファンタジー小説の類いと同列のもの、フィクションと明記されていないために「スピリチュアル」とカテゴライズする他ないような書だからです。著者の筆致もまた、そうした受け止められ方を見越したものになっていると感じます。

ただ、「ふつう」の一般常識から離脱したいと考えておられる向きには、機会があれば目を通してみるのは悪くないと思います。人間がもっているであろう神秘的な潜在能力は、どこまで行くことができるものなのか。「可能性」の提示と受け止めることができるならば、哲学としての有用性はあるということができると考えます。




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愚慫@井ノ上裕之
感じるままに。

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