愛を仮説する、その2~言葉は愛の顕現
またもや大きく出ました。言葉は愛の顕現である――。
前回では、
愛の性質2
愛は創造力(creativity)である
というところまで導き出しました。愛は無限(の表現力)という特徴を持ち、その特徴から創造力という性質が導き出される。
で、今回は、愛による創造のもっとも根源的なカタチはどこなのか、という話です。それが言葉。
実は、このテーマについて以前、ここnoteでさんざん考察したものです。
ここで私は、愛による創造のことを〈ワンダー wonder〉と呼びました。『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著)の“ワンダー”です。
不思議を感じる感覚は、そのまま愛を感じる感覚でもある。そして、「ヘレン・ケラーの奇跡」を引用しつつ、
違うものを同じと「為す」
ことによって、言葉が誕生するのだとしました。違うもの、異なるものの間に存在するのは「差異」ですが、この差異を橋渡しすることで言葉が誕生するというわけです。
では、この「橋渡し」を誰がするのか? 私たち人間ひとり一人がする。「橋渡し」こそが創造(creation)。
感覚は備わったものです。目が見える、耳が聞こえる、モノに触れると感触がある、味がわかる、匂いがわかる。これら五感は、人によって多少の差異はあれど、基本みな同じのはず。コンピュータでいえば、プロトコルが同じ。そうでないと、伝わりようがありません。
ところが言葉は違います。五感は人類共通だけど、言葉は違う。場所場所で違う。なぜか。その場所場所で、人間自身が創造したから。
創造神というものが存在したとして、人間は神の創造物。人間に共通の五感もそう。言葉を創造する能力も神の賜と言えるかもしれません。が、たとえそうだとしても、創造したのは人間です。神が与えたもうた能力を使って創造した。
アブラハムの宗教のもっとも古い聖典、いわゆる旧約聖書の冒頭の創世記は、神が世界を創造したことを語っています。
元始に神天地を創造たまへり
地は定形なく曠空くして黑暗淵の面にあり神の靈水の面を覆たりき
神光あれと言たまひければ光ありき
創造神が言葉でもって命令すると、天や地や光までもがたちどころに出現します。神の創造の力、アガペーというやつです。神の愛。神においては、
創造=愛=言葉
神の被造物たる人間、神に似て創造力を備えた人間は、フィロソフィアとエロースという二種類の愛を備えます。フィロソフィアは、神と神の創造力を認識する(言葉にする)愛。神から備えられた感覚を用いて、自身の内面にクオリアを創造する精神的な愛。クオリアは感覚の複合物で、言葉の中身。一方のエロースは、神の被造物同士の間で働く愛。身体的な愛。
もっとも、私は日本教徒なので、愛はエロースだけで十分だと思っていますが。精神と身体の分離も不要。山川草木悉皆成仏、です。笑
想像力の輪を広げていくのは、とても楽しいです ♬
感じるままに。