「好き」は〈しあわせ〉への一里塚
今回もまた〈しあわせ〉の哲学です。
前回の続き、というより修正です。
〈しあわせ〉とは自愛、つまり自己肯定の状態。
一方で〈しあわせ〉とは似て非なる〔幸福〕という状態もあって、その状態は【自己嫌悪】が自己愛(ナルシシズム)によって覆い隠されている状態である。
こんなふうに書いてしまうと、自己愛(ナルシシズム)は、善悪でいえば悪の方に分類されるものだと伝わってしまいかねない、実際にそのように伝わっているだろうと思います。
自己愛は、特定の何ごとかを「好き」「楽しい」と感じさせる。“特定の”だから限定付きで、自愛のように無条件というわけではないけれど、「好き」「楽しい」ということそのものは、わけがわからない無条件なものです。
もう一度整理します。
自愛は、自分自身のことを無条件で好き。
だから、なにをやっても「好きなこと」です。
自己愛は、その対象(仕事や人物)は無条件で好きなんだけど、自分を好きということになると、その対象に接しているときに限りという条件(理由)が付いてしまうので、条件付きの理由があるものになってしまう。
自己愛を悪いものだとラベリングしてしまうと、その人にとって大切な人は重要な仕事を好きになることも悪いことだということになってしまって、余計に悪いことになってしまいます。
だから、自己愛も、条件付きではあるけれども、善いことではある。
では、自己愛が善くないことになる条件とは、なにか。
その自己愛に留まろうとすること、です。
自己愛を【アイデンティティ】と為して、そのポジションに留まろうとすること。
ではでは、自己愛に留まらないとは、どのようなことか。
そうしたことを語りたいと思っていたら、ベリータイムリーなことに、まさに「そのこと」を書いたノートに今朝、出会いました。
欲しいと思ったものがすぐさま現れる。
これはきっと、シンクロニシティというやつでしょう ♬
男の子たちから「大切なもの」をもらうエピソード。
ぼくはこのエピソードから、とある本を連想しました。
本書の冒頭には、アメリカ新大陸に渡って間もない白人と、ネイティブ・アメリカンの出会いが描かれています。
ネイティブ・アメリカンのひとりが、交友を結んで友達になった白人に、自身が大切な品物(たしかパイプだったと記憶)を贈ります。白人は、友情の記念として、贈答品を部屋に飾る。あるとき、白人の家を訪れたネイティブは、贈答品が飾られていることに驚いてしまう――。
白人は、大切だから手元に置いておいて、飾っておいた。けれど、ネイティブからすれば、大切だったら譲り渡すのが常識。
前者は自己愛。
後者は自愛です。
木村さんのエピソードの出てくる男の子たちの振る舞いは、ネイティブアメリカンの人たちの行動とそっくりです。
男の子「いいんだよ!かっこいいやつあげる!」
なんとかっこいい男の子であることか。
月島の男の子やネイティブ・アメリカンの人たちが、なぜ、大切なもの、大好きなものを他人に譲ることができるのか。
自分自身が無条件で好きだから。
大切なものや大好きなものを譲っても、自分を嫌いになることがない。それを失っても、自己肯定は変わらない。それどころか、大好きなものを譲り渡すことで、もっと自分のことが好きになることができる。
木村さんは、男の子たちの自愛に巻き込まれたのだろうと思います。巻き込まれて、「好き」ということの意義(意味ではありません)を見つけることができた。
それは、しかし、いまだ自己愛です。
その「好き」が失われてしまえば、また自己嫌悪に戻ってしまいかねない。だから、全力で「好き」を守ろうとするでしょう。そのこと自体は、どこにも悪いことはない。ただ、それに留まっていようとするのは、善いことだとはいえない。
ぼくが好きな富士山の写真です。
この写真が好きなのには理由があります。
まるで、自己嫌悪から自己愛を発見したときの心象風景のようだからです。
ちょうど富士山の山頂付近だけ雲が途切れて、光が差している。暗雲が垂れ込めている中で、富士山だけが光り輝いている。
自己愛の「好き」は、まさにこれ。
光り輝くところに惹かれ、その頂点を極めたいと野望を抱いたりする。
けれど、野望を実現するのは簡単なことではない。世の中には才能溢れる人がごまんといますから。
自分自身を無条件に好きな試合の状態は、富士山に託して表すなら、こんな感じでしょう。一点の曇りもない。すべてが光り輝いている。
自己嫌悪の心象風景は、こんな感じでしょうか。
この雲の向こうに富士山は存在する。雲の様子からだけでも、その存在感はただならぬものがある。けれど、姿は見えない。
「好き」が富士山だとしたら、「好き」の気配は感じていても、その姿を明確に捉えることができていない状態。
月島の男の子たちや、ネイティブ・アメリカンの人たちのように、澄み渡った心持ちに至りたいと思います。
そして、考えるべきは、そうした心持ちの持ち主が、「大人」ではないということ。
男はもとより、ネイティブ・アメリカンの人たちも、文明基準でからすれば成熟した社会人とは、なかなか認知してもらえないでしょう。