『幼な子われらに生まれ』
ちぐはぐな印象を抱きつづけた映画鑑賞の時間でした。
本作のような社会派の映画は、大人のためのものだといっていいでしょう。『幼な子われらに生まれ』を「大人の、大人による、大人のための映画」としてみれば、高い世評通りの秀作だと思いました。
本作で描かれているのは、父親のあり方か?
それとも家族のありようか?
本作を見ながらちぐはぐな印象を抱きつづけた理由は、「父親(あるいは母親)のあり方」と「家族のあり方」との間に乖離があることが、本作が図らずも暴露してしまっていることにあると考えます。
それは、「大人を見る視線」と「子どもを見る視線」の違いと言い換えていいのかもしれません。
★ 子どもは演技ができない
本作の主役は父親役の浅野忠信です。「ちぐはぐな家族」を経済的にも、精神的にも支えようと苦闘する父親の役。
ですが、本作を眺めていて、この映画にはもうひとり「主役」がいると思いました。「演技」することができない「主役」。
彼女は、苦闘する父親を父親たらしめている家族の中心。
それは、次女の恵理子(新井美羽)です。
小学校に上がる前の幼稚園(保育園)児という役どころ。当然に子役です。
家族を「大人を見る視線」で見たとき、中心に位置すると考えられるのは父親であり母親であるのが今日の(核)家族のあり方。家族を支える中心というものの見方です。
”支える中心”と言語化すれば、一方で支えられる中心にも意識の焦点が当てられる。この意識のありようが「子どもを見る視点」というわけです。
姉である薫(南沙良)は、「大人を見る視線」からみれば、準主役。思春期のそうでなくても不安定な時期に父親の異なる家族が生まれるということで、「ちぐはぐな家族」の「ちぐはぐ」を一身に表現する役どころ。薫の情緒不安定を、自身の不安定とも格闘しながら治めていく「父親の役割」を演ずる浅野忠信が、本作の一番の見所――「大人を見る視点」からすれば。
ぼくが本作にちぐはぐな印象を持ち続けた主因は、「新井美羽の演技」にあります。支えられる中心に位置するこの子の演技は、「子どもの役割」の演技にはなっていません。「新井美羽の演技」から観て取れるのは、十分な支えを得て家族を自分が安心して居られる居場所として満喫している姿。その家族が「ちぐはぐ」だとはとても思えない。
★ 演技とはイメージに「同調」すること
上掲の映画.comの記事も、もちろん「大人を見る視点」のものです。「大人を見る視点」から映画の演出や俳優の演技を賞賛している。ぼくもこの賞賛に異議はありません。
くわえて、もうひとつ記事を紹介します。
浅野さんは必ず反応する
島監督は、浅野には指示を与えず、薫役の南や次女役の新井美羽らと議論して念入りに役作りをした上で浅野にぶつけ、「その“化学反応”を撮っていった」という。このため、事態を改善しようと努力しながら追い込まれていく信の苦悩には、演技を超えたリアリティーが感じられる。
「演技を超えたリアリティを感じる」にはまったく同感ですが、しかし、そのリアリティも仮想のものでしかありません。”化学反応(=「感応」)”はあくまで「仮想の中」のことであって、たとえ仮想だとしてもそこに「化学反応=感応」があれば、人間はそこにリアリティを感じ取ることができる。これは人間というより大人の特性で、子どもにはこれができません。
子役である新井美羽も、そこはできていない。
子どもが大人へと成長していって、「仮想のなかでの化学反応(感応)」を行なうことができるようになるのは思春期にさしかかって以降のことです。俗に言う「中二病」というやつは、できるようになったばかりの「仮想の中での化学反応」に囚われてしまう、ありがちな一過性の傾向です。
そうした一過性のものが経過をして一人前の大人に成長すると、人間は現実のさまざまな場面に即したイメージを作り上げて、そのイメージに身体を「同調」させていこうとするようになります。大人になると誰しもが自身の中に複数のアバターを持つようになり、演技をしているような感覚を持つようになる。この感覚があるからこそ「本当の自分」などといったものを探し求めるようにもなります。
俳優という仕事は、そうした「(身体の)同調」のプロフェッショナルだといえる言えるでしょう。
★ 子どもの身体は「感応」でできている
ところが、子どもはこの芸当がまだできません。大人は(頭のなかの)イメージを「化学反応」させていきますが、子どもの「化学反応」は、まだ身体にある。子役といえども子どもですから、その演技は頭の中のイメージへの「同調」ではない、環境(たとえば家族)との直接的な「感応」になる。
「新井美羽の演技」もそうです。
そして、上で記したように「新井美羽の演技」から観て取れるのは(ちぐはぐとはいえない)健全な「家族のありよう」です。なのに、大人たちは、準主役の南沙良も含めていいでしょう、「同調」の演技をしています。
「支えられる中心」である次女・恵理子から見える家族は健全な家族。一方で「支える中心」である父親・信と中心に反撥する長女・薫からみれば、不健全なちぐはぐな家族。
同じ作品から、同じ家族についてのまったく正反対の感触が伝わってくる。これこそ「ちぐはぐ」というべきものでしょう。
★ 「子どもを見る視点」はどこへ行った?
誤解なきように申し上げますが、ぼくはぼくが感じた「ちぐはぐ」を作品の不出来として批判をしたいわけではありません。むしろ逆で、「大人を見る視点」からはよく出来ているがゆえに、かえって「子どもを見る視点」も明瞭になっていると評価をしたい。
さらにいえば、この「ちぐはぐ」は子どもと大人の違いから生じるものですから、批判をしたところで仕方がないことです。
(次女のいない家族構成にすればよかったという批判は可能でしょうが。)
ぼくが違和感を感じるのは、にもかかわらず、本作『幼な子われらに生まれ』を鑑賞する視線に、「子ども見る目」が感じられないということです。
「大人を見る目」だけで本作を観るならば、それは架空の「考えさせられる物語」で終わりです。本作を観て(父親の役割の)イメージを化学反応させたとしても、「大人を見る視線」だけでは支えられる方の「子どもを見る視点」がないなら、現実に子どもがいる家族には役に立たない――というより、視線がないのは「役に立てようとしない」ということに他なりません。
奇しくもというべきか、本作の中には「役に立てようとしない」人間の姿も描かれています。母親・奈苗(田中麗奈)の元配偶者で子どもたちの実父・沢田(宮藤官九郎)がそれです。本作を観る者は、沢田の「子どもを見る視点」のなさに苛立ちを感じるはずです。
もうひとつ、「子どもを見る視点」に近い視点が本作では提示されます。それは、信(浅野忠信)の元配偶者・友佳(寺島しのぶ)から発せられものです。「あなたは理由は問うけど、気持ちを問うことをしない」
「気持ちを問うこと」が「子どもを見る視点」に近いことは、本作の終盤で証明されます。実父・沢田に会いに行かなかった薫に信が気持ちを問いかける。この問いかけは、鑑賞者に信が「子どもを見る視点」に立っていることを理解させます。
ところが、です。いざ「鑑賞者の視点」を探ってみると、信が得たはずの「子どもを見る視点」に立ったものが見当たらない。俳優の演技や監督の演出はもちろん賞賛に値しますが、それらは所詮「大人を見る視点」でしかありません。「子どもを見る視点」はどこへ行ったんだ? と思わずにはいられません。
(探せば出てくると思いますが...。)
★ 子どもを甘く見ると...
といって、では、本作が世の「父親の役割」を演じようとする者に役立たないかというと、そんなことはなかろうと思います。あくまで「父親の役割」を演じることに限っての話ですが。
「父親の役割」を演じることは大切だと思います。けれど、それが本当に子どもに通用するかというと、ぼくは疑問に思っています。「役割」という限りは「アバター」が(頭の中に)存在する。「アバター」の視点から子どもを眺めることになる。これこそ「大人の視点」というものです。
子どもは、まだ「アバター」を確立させることができません。しかし、だからといって、子どもが鈍感なわけ決してはない。子ども方がずっとアバターを外した「人間の姿(身体の素直な感応)」に敏感――逆にそれしか子どもはわからないからです。動物的と言い換えてもいいでしょう。
まだ何もわからない子どもだから――と、大人は考えがちです。それは確かにその通りです。けれど、彼らとて「完成した一個の人間」です。そう考えれば、わからない分だけ、わかるところへ鋭敏になる。そして、おそらく、子どもが鋭敏に感じ取るところこそが、人間という生き物が家族や社会といった集団を営んでいく上で最も大切なこと。
子どもを甘く見ていると、大人はいずれ人間でいたくてもいられなくなっていくような気がします。