参加型社会への参加障壁
最近関心を深めている参加型社会。
毎週金曜日は、参加型社会を主導する田原真人さんの「かかってこい道場」が催されます。
当記事は、「かかってこい道場」で田原さんに挑んでいこうと考えている内容を前もって書き記しておこうとするものです。
なお「かかってこい道場」の趣旨は、参加型社会のコンセプトを理解するのがなかなかにハードルが高いという問題を解決しようとするものです。従来の価値観を180度反転したような概念なので、どうしても染みついた常識が邪魔をして、コンセプトの感覚的把握が難しいのです。
で、田原さんに挑んでいきたい内容とは、何か? それは、
参加型社会に参加するに当たっては、現状では参加障壁が存在する
という矛盾。ここを指摘したいと考えています。
参加障壁とは何か? それは、「参加させられる社会」を経由しないと実質的に参加型社会に参加することは難しいという現実問題を指しています。具体的にいえば、
この二冊、とくに右側の『出現する参加型社会』という
書籍を購入して
その内容を理解できるかどうかは別として、田原さんの主張は把握しておく必要があります。(理解が困難なので「かかってこい道場」があります)
「書籍を購入する」という行為は「参加させられる社会」の様式です。
現状は「参加させられる社会」であることに間違いはありません。ですから、参加型社会への活動も「参加させられる社会」の中で行われることになるのが現実です。
この現実はやむを得ないことはあります。とはいえ、「やむを得ないこと」に対しては「受け容れる」という選択肢しかないわけではありません。「抗う」という選択肢があります。こちらも具体的にいえば、有償の書籍を出版するという選択肢しかなかったのか? という疑問です。
自らの主張を発信するのに書籍を出版するというのは非常に有効な手段です。出版という行為は、それ自体で権威付けの為される行為だからです。ただし、この権威付けはあくまでも「参加させられる社会」のものです。
書籍の内容が参加型社会でなければ、私だってこのような疑問を呈したりはしません。ひとときの娯楽に供するための書籍であるならば疑問を呈するのは野暮な話でしょう。
田原さんは、
「あなたに向ってこの本を書いた」
と書かれていますし、その意志を受け止めたいと思います。ですが、すぐには受け止められない現実があります。参加型社会においてもこの「現実」がそのままであるとするなら、それは果たして参加型社会と言えるのか? またもし言えないとするならば、この「現実」を変える方法論は何なのでしょうか?
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この問いについては私自身の答えがあります。が、それを記すのは「かかってこい道場」の後にすることにします。
ただひとつだけ。
情報は共有しなければ意味ない。
これが情報についての根本原理です。共有されない情報は情報ではないからです。対してモノの根本原理は専有です。代表的な専有物は自身の身体です。
人間社会は情報の共有によって成立してます。ということは、情報の共有が妨げられた瞬間に「参加する自由」は奪われてしまうということです。
感じるままに。