カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーによるベートーヴェンの『英雄』
タイトルは偽装です。
本テキストの中身は、百田尚樹氏の悪口です。
悪口なんぞ書いてみよう思ったきっかけは、こちら。
「悪口」とは言ったものの、実のところ、ぼくは百田尚樹氏を嫌いではない。好きでもない。興味はなくはない――というより、ネットでニュースを拾っているとアンテナに引っかかってきて、ウザいとは正直感じるけれど、まあ、それとても百田氏に責任はない。
「才能はあるだろうに、残念なオッサンだよな」
一応、『永遠の0』は読ませてもらっています。図書館でお借りして。
そちらの感想はまた別途書くとして(気が向いたら)、今日は話をアッチの方向へ展開することにします。
「百田尚樹の悪口」という言葉がぼくの脳裡に浮かんだとき、連想したのがタイトルのやつだったりします。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮棒の下、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調作品55。ベルリン・フィル創立100周年記念コンサートの時のもの。
『英雄』という副題は、ベートーヴェンがナポレオンに献呈しようとしたけれど、ナポレオンが帝位に就いたことを知って激怒したというエピソードにちなんでいます。
百田尚樹氏は(も)、クラシック音楽の大ファンなんですね。氏がご機嫌にウンチクを垂れる新書の方も、読ませてもらっていますとも。
ま、そんなわけで、同じくクラシック音楽大好きなぼくには、氏からベートーヴェンにつながる下地はあるわけですが、それにしても、ピンポイントで上掲の演奏に結びつくのには理由があります。
つまりは、共通点。
さて、上の動画ですが、これは「凄い」演奏です。
人によっては「素晴らしい」と言うでしょうが、ぼくはそうは言いたくない。演奏の「凄さ」には舌を巻くが、心が打ち震えるかというと...。
でも実は一時、この演奏を愛聴していた時期があります。いろいろとしんどかった時分。「不機嫌」から「上機嫌」へと脱皮をしかかっていて、美化していうなら蛹から羽化しようとしていた時。
そんなふうなときは「心が打ち震える」みたいなことはかえって煩わしいものなんですが、だからこそ、響きだけが達者で余計な余韻のない音楽の方が心地が良かったりする。この演奏は、当時のぼくのそうした欲求にピッタリのものでした。
そうした体験があるから、「百田尚樹の悪口」でこの演奏を連想した。
壮大な「上機嫌のフリ」なんです。
カラヤンの『英雄』も。
『永遠の0』もね。
壮大なフリをしなければならないということは、それだけ深い不機嫌を抱えているということ。百田尚樹氏の振る舞いから察せられるものと一致します。
芸術というのは素晴らしいものだけれど、恐ろしいものでもあります。不機嫌を覆い隠して、人々の感動を与えることができる。「不機嫌」を「上機嫌」だと勘違いさせる力があるんです。
ベートーヴェン自身も「勘違いの人」だったろうと思います。巨大な才能に恵まれた巨大な不機嫌が、中期の「傑作の森」といわれる作品群を創作していた頃のベートーヴェンでしょう。もし仮に、当時すでSNSが発達していたとするならば、ベートーヴェンも不機嫌なツイートを垂れ流していたに違いないと想像する。
けれどベートーヴェンは、「不機嫌」から「上機嫌」へと羽化を果たしました。後期の作品群がそれ。若い頃よりもずっと自由になったベートーヴェンの姿があそこにはある。
「ベートーヴェンは全集で味わうべき初めての芸術家」と言われたりもしますが、それは「羽化」があったからこそです。
ベルリン・フィル創立100周年記念コンサートの演奏曲目は、当初は『第九』の予定だったそうです。それをカラヤンが『英雄』へと変更したらしい。祝祭的なイベントでは『第九』というのがあちらでも相場らしいのですが、それは『第九』が「羽化」後だと認識されているからですが、なのに「羽化」前の作品に切りかえたカラヤンは、とてもカラヤンらしいと思ったりもします。
上掲の演奏は、その「凄さ」が遺憾なく発揮されていると感じます。同じようなことを『永遠の0』からも感じる気がする。
ところで百田尚樹氏のクラシック音楽紹介本ですが、紹介する作品たちや感想を見るに、「羽化」には関心がなさそうな印象をもちました(と、クラシック愛好家らしいマウンティングをかましておきますw)。
そうそう、思い出しました。その本の読後の連想したのが映画『アンタッチャブル』のワンシーンだったこと。ロバート・デ・ニーロ演じるアル・カポネが、オペラのアリアに涙しているシーン。
映画は確かその後、カポネが棍棒で部下を殴り殺すシーンになったと記憶しています。
感じるままに。