我思う、故に我在り
片手で数えられるぼくの友人のひとりに、
ぼくでは到底辿り着けないところにいる友人が、いる。
その友人とはデザイン専門学校で同じクラスになってからずっと付き合いが続いているのだが、
その学び舎での或る日のこと。
いつものように何気ない雑談に花を咲かせていると、
その友人は、雑談に登場したガンダムの足音を「デイン デイン」と表現したのだ。
ぼくは、
心の準備もないまま、
突然に発せられたその表現に、
いかづちに撃たれたような衝撃を受けた。
(...いかづちに撃たれたことがあるのか、なんて野暮なことは言うな)
ぼくの感覚からしたら
「ズシン ズシン」とか「ドシン ドシン」
なのだが、
その友人は
「デイン デイン」
なのだ。
どうしたらその表現に辿り着けるのだろうと不思議に思った。
自分の中になにを取り込んだらその表現が生成されるのだろう、と。
なにに関心を持って毎日をどんなふうに過ごしたらその表現に辿り着けるのだろう、と。
未だに大いなる謎なのである。
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「自分とは一体なんなんだろう」と、人はよく思索する。
「我思う、故に我あり」とデカルトは言った。
そういった問いと同等の価値が、この「デイン デイン」を考える行為にはある。
小林秀雄が「考えるとはそのものと交わることだ」みたいなことを言っている。
(...おいおいうろ覚えかよ、なんて野暮なことは言うな)
母親が自分の子どものことを頭で「考える」のではなく、
いつも子どもといっしょにいる、いつも子どもと触れ合っている、だから子どものことを理解できる。
そういう論法だ。
なるほどと思う。
であるなら、なにと交わっていたら「デイン デイン」という擬音を発明できるのか。
そう、もはや発明だ。
(...え? 、なんて野暮なことは言うな)
頭で考えず、なにと触れ合っていたらそこに到達できるのか。
そんなことを、我思う。
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「デイン デイン」には、その友人が歩んできたそれまでの歴史が凝縮されていると言える。
ガンダムの足音に、人とは違った角度でアプローチできたのはその友人の歴史の為せる技だからだ。
その歴史をまるまる辿ることは不可能だ。
誰かの歴史はその誰かのものであって、
その誰かの歴史を辿ることは誰であっても不可能。
だからひとりひとりにそれぞれの価値がある。
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ものごとを多角的に捉えられるようになれば、また違った景色が目の前に開けるだろう。
そうすればまた違ったものを生み出せるだろう。
そうやって生み出されたものをまたいろんな角度から捉えていく。
それを際限なく繰り返す。
文化の発展、人類の発展とは、そういうことだろう。
「デイン デイン」への探究心は、今、ますます加速度を増して いきまーす!
...チーーーン
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