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DNRの思い出

仕事が忙しくなり、投稿はやめていましたが、あと一年くらいは落ち着かなそうなので、ペースを落として、ゆるゆると投稿していく方針に変更しました。

本題です。
DNRってご存知でしょうか?Do not resuscitate の略で、日本語訳すると「蘇生処置しない」です。病院だと医師から看護師への指示出しなどで、しばしば使われます。
例えば、末期がんの患者さんが入院していて、いつ亡くなってもおかしくない時に患者さん本人、あるいは家族の同意を得て、「急変時、DNR」という指示を出すのです。本来、病棟内で患者さんの心拍が停止した時には心臓マッサージなどの救命処置を行い、それがうまくいった場合には人工呼吸器管理などの延命処置を開始します。しかしDNRの指示が出ている患者さんの場合は、そのような状況になっても静かに見守るだけです。末期の患者さんに延命処置をしても本人の苦痛となる時間が長くなるだけだからです。できるだけ穏やかに静かに旅立てるように皆で見守ります。当然、このような対処をするには患者さん本人や家族の同意が必須になってきますので、前もって話し合いが必要になります。逆に言えば、同意がない、あるいはそういった話し合いが行われていない場合には、高齢者の末期がんといった正直、助かる見込みのない患者さんにも延命処置を施すことになってしまいます。

私が研修医として勤務していた病院は医者の数が少なく、研修医にも色々な裁量が任されていました。DNRの話し合いをするのはもちろん上級医の仕事ですが、実際に指示を出すのは研修医だったりもしました。また研修が進むと慣れてきて、看護師さんから研修医にDNRの相談をされたり、上級医にDNRの同意を取る進言をしたりする様になります。上級医も研修医からこういう進言があると、「よく患者を観察しているな」と評価していただけたものでした。

研修医一年目の秋頃、私は内科をローテートしていました。この時、大学病院からひとつ上の先輩が、二年目研修医として私の病院にやってきます。ややこしいのですが私のいた研修病院は大学の関連病院で、いわゆる大学病院とは異なるのですが、大学病院と連携しており、こちらの研修医が希望すれば大学病院で一定期間、勉強できるし、反対に大学病院の研修医が関連病院へ武者修行しにやってくることも可能でした。この先輩は後者のパターンで、ベースは大学病院で研修し、武者修行目的に私の病院にやってきたのでした。

学生時代からお世話になっていた先輩で、学生の時も運動部に所属しており、医者になってからも非常に熱い方でした。研修が進んだある時、この先輩にこんな話をされます。
「ここの研修医は優秀だよな。自分で考えて、判断して、すごいと思う。でも簡単にDNRって言いすぎなんだよな」

この時、ハッとしました。この時は研修医になって半年ほど経ったところで、なんとなく仕事に慣れてきたところでした。ローテートしていた内科には、がん患者さんがたくさんいました。振り返ってみると、「70歳、膵がんステージ4、抗がん剤投与目的の入院。急変時はDNRでいいですよね?」といった会話を簡単にしていたのです。
その先輩には、「上級医がDNRと提案するのは、その裏に色々な経験とか、考えがあってのことなんだよ。医者になって半年足らずのやつらが簡単にDNRとか言ってるのは違和感を感じる」と言われました。

このDNRですが、もちろん患者さんのことを思っての判断です。助かる見込みのない患者さんに無理に心臓マッサージを続けると、骨が折れてしまい、本当にかわいそうな見た目になってしまいます。また心肺停止からうまく蘇生したとしても人工呼吸器管理になることが多く、仮にここから離脱できたとしても元の病気が治っていないので再度、同じような経過を辿ることは目に見えています。とすると延命処置自体が患者さんを傷つける行為になってしまうのです。
一方で、一度、DNR宣言をすると医療者には妙な安堵感が流れます。「この患者さんにもう無理な治療はしなくていいんだ」とか、「急変してもそのまま見守ればいいんだよね」と感じて、緊張感がなくなってしまうのです。自分が研修医の時に容体の悪い患者さんが入ってくると本当にプレッシャーを感じていました。急変したら一番に駆けつけなくてはいけない、それから率先して色々な処置をしなければならない、当直の先生にも毎晩、申し送りをしなければいけない。そんなことを考えると気分が重くなります。そんな時に、上級医がDNR宣言をしてくれると、そういった緊張感から一気に解放されます。患者さんが亡くなったら家族に少し話して、あとは上級医の到着を待てばいい、そんな心境です。

その先輩には、私を含め簡単にDNRをとろうとする研修医たちが、命を救おうとする現場から逃げようとする無責任なやつらに見えたのでしょう。それもあって苦言を呈してくれたようでした。

それから私自身は考え方を改めました。高齢者のがんの末期でも、若い肺炎の患者さんでもまずは救命を一番に考えるようになりました。意味のないと言われる延命処置もいきなり選択肢から外すことはしません。その上で方針を本人、家族と相談しながら決めていくようにしたのです。例えば助かる見込みのない患者さんに、家族の希望で延命処置で施さられ、三ヶ月だけ延命できたとします。以前なら意味のないと延命だと切り捨てたかもしれませんが、この三ヶ月で色々な人と最期に会えるかもしれないですし、家族に悔いが残らなければそれはそれで良い気もします(もちろん積極的には進めませんが)。本人も辛いかもしれませんが、それは親としてであったり、家族の一員としての責任でもあるのかもしれませんし、一概に切って捨ててしまうのは間違っている気がします。

実はその先輩と私には共通点がありました。二人とも親を学生時代に亡くしており、その際に延命処置をお願いしたのです。やはり最期は大変でしたが、そのこと自体に悔いはありません。そういう経験があるからこそ、先輩もこういう話をされたのでしょうし、私も素直に受け入れられたのだと思います。

DNRは大事な選択肢です。末期がんなど、助かる見込みのない患者さんにはDNR宣言をすることは正しい選択と思います。一方で、少しでもどんな形でもいいから生きてほしいという本人や家族の希望を切り捨ててしまうのは、それはそれで間違っている気がします。もちろんその気持ちに寄り添って、本人、家族の負担にならないようにもっていくのも医師の仕事ではあるのですが。
そんなことを考えた、DNRの思い出でした。













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