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狩猟、産む気もないのに生理かよ 2025-1-27(月)〜2-2(日)の日記

1月27日(月)

師匠(82歳)と狩猟へ。
天気が良くて、気持ちがいい日だった。
山を歩いていると、空気、音、光、色んな美しいものが重なり合ったときにものすごく気持ちが高ぶって、心がきゅっとなる。

ふと違和感に気付いてスコープを覗いた。
動物。色からするに、たぶん鹿。頭を下げていて顔が見えない。
なんの動物か確信が持てないと撃ってはならない。誤射は法に触れる。
スコープから顔を離したら、獲物が走った。鹿だった。

諦めず覗いていればよかったのに、と後悔が頭をよぎる。
向こうは命がかかっている。仕方がない。

その後鹿に会えず、昼休憩。
山で食べるお昼ご飯は人それぞれ個性がある。
私は基本的におにぎり。
師匠も基本はおにぎりを奥さんに握ってもらうのだけど、今日はなぜかおかずに生セロリをもたされていて、隣でサクサクと妙にいい音を出している。

休憩を終え、歩き始めたのに、急に立ち止まる師匠。
おもむろにそのへんにある木の枝を折り、口へ。
木の枝を爪楊枝代わりに歯に挟まったセロリを取っているらしい。
口の中で折れた枝の先をペッペペッペしている。
面白すぎる。ツボに入った。

近くで風を切る音がした。
見上げるとリスが木を勢いよく移動している。
こちらに興味を持って様子を窺っているよう。

かわいくて癒やされた。
捕れなくても、実は毎回山を歩くことで心は満たされている。

1月28日(火)

自分にとっての幸せは、平穏な日々を送ること。
争いや妬み僻みのない世界に生きること。
その中でささやかな喜びを見つけること。

やっと見つけたのに、どうして
競争の世界で輝く人に少しでも嫉妬の気持ちが芽生えてしまったりするんだろう。

私って、努力できてないんじゃないか?
色んなものから逃げてきたんじゃないか?
と思ってしまうことが、ある。

だけど、私にとっての努力は昔のように何かを犠牲にしてひた走ることじゃない。
バランスを保ちながら明日へ着実に学びを持って進むことだ。
努力していないわけじゃない。
身体は動かしていないけれど、思考している。 世界は広い、価値観は一つじゃない。
大丈夫、大丈夫。 

1月29日(水)

夫と狩猟へ。
2日前師匠と歩いた道と、その周辺を調べる。

自分たちから15メートル位の距離から立ち上がり逃げていった鹿をひたすら追いかける。
必死になった。
川に落ちそうになったり、転んだ拍子に鉄砲に雪が入ってしまって、イライラしたりしながら、夫とは別の位置から二手に分かれて追う。

思わぬ箇所で転ぶなどする

残念、鹿を見失い一段落して車に戻る。
気になる猟場を覗きに行って、除雪されていない道に入ったら車がスタックした。

30分ほど格闘して、もう無理!となり、師匠にSOSの電話。
今から行くわ〜!と言ってもらったあと、待っている間に車がはまっていた箇所から抜けた。
なんでやねん。


1月30日(木)

夫と狩猟へ、二日目。
前の日に地形図で気になった林道に初めて入ってみる。

鹿の足跡はあまりないが通り道にはなっている様子、射程圏内で鹿を見つけ、鹿にこちらの存在が気付かれていないシュチュエーションが何度かあった。
異変を感じ木に隠れている鹿、混んだ木々、スコープに獲物が入らず、もさくさしてたら逃げられた。
しかし、鹿に近付いてきた実感がある。
もうすぐ捕れそう、根拠はない。

夫、胃腸炎でお腹を下しておりエネルギーがあまりない様子。
新しく行った林道は地形図でみたより体感ずっと距離が長くて、デポした車になかなかたどり着かない。
極めつけに道を間違え、崖をトラバースする羽目になる。(地形図上も崖マークがついていた。盲点)

フラっと体勢を崩してしまったら、落ちるのではという不安で、なかなかの恐怖。(下は車道。轢かれる恐怖!しかし車通りはほぼない)
なんとか決死の思いで車にたどり着く。

家に帰ると夫、発熱。病院へ。
あまり辛さを理解できておらず、頑張らせすぎてしまった。
見ている私が異変に気づくべきで、自分のやりたいことに躍起になっている場合ではなかった。反省。


1月31日(金)

仕事の休憩に先輩が差し入れにケーキを買ってきてくれた。
普段の言葉の選び方もだけど、こういう余裕のある気遣い含め、先輩とこの職場がとても好き。

昔、一緒に働いていた頃、夫もよく袋菓子買って職場に差し入れしてくれてたなぁと思い出す。
おやつをくれる人は根から良い人、信じて良い。


2月1日(土)

月岡ツキさんの「産む気もないのに生理かよ!」を読了。

強いタイトルだけれど、子を持たない選択を今のところはしている意見や葛藤が書かれているエッセイで、
同い年で似た境遇と意見を持つものとしては、もう首がもげるかと思うくらい頷きながら読んだ。

子なし夫婦と言うと、自分がその立場になる前は何だか少しさみしいものだという印象を持っていた。
けれどいざ、夫と結婚することとなり、具体的に子供が欲しいという感情は湧いてこなかった。

そんなわたしたちがさみしいかと言えば、全くそんなことはない。
自分で言うのもなんだけれど私たちはとても良いコンビだと思う。
数年一緒に暮らしているだけだけれど、食べたいものや言いたいこともなんとなくわかる。個として尊重している、だけど2人で一つだと本当に思っている。

ここに新メンバー(子)がやってきたとして、トリオになっても、関係性を変えながらおそらく楽しいことも辛いこともたくさんあって、乗り越えていけると思うけれど、
果たしてそれをしたいのか?と考えると、手放しにイエスとは思えない。
新しい命を生み出す決定的な根拠がみつからない。

それが現時点での考えである。
子あり夫婦がマジョリティな世の中で、この考えを通すのは、孤独な世の中である。

そんなに深く考えなくて大丈夫だよォ〜
いいお母さんになりそうなのに
なるようになるよォ〜
するりとその壁を乗り越えていった人たちにはそう言われそうだが(実際言われたこともある)、そんな簡単に考えられるわけないのだ。
なぜなぜ属のわたしたちは、ちいさなWHYにひとつづつ納得しなければ、そのフェーズに向かえない。
言語化してくれてありがとう、月岡さん。

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2月2日(日)

インスタグラムのアプリをスマホから消してひと月ほどになる。
インスタグラムのチェックは、10人くらいしか知人をフォローしていないアカウントで、1日2回ほどブラウザから。

手持ち無沙汰になって、noteを書き始めたら、日々が彩りだした気がする。
そして、商品紹介系の情報も見なくなったら無駄な散財も減った。

さて、明日はどこに行こうかな。


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