つくったあとに育っていくもの:森づくりと、ものづくり
このnoteではいつしか「#欲しいものはつくる」がシリーズ化しました。欲しいと思い立ったものをつくってみるとき、そこにはワクワク感のあるプロセスがあって、たのしい……。
ただ、いろいろきっかけがあって近ごろ、つくったものがその後どうなるか、ということに関心が向くようになりました。
きっかけのひとつだったのは、先日急に読みたくなった、宮脇先生のこの本。
もう、読んでいてとても元気の出る本なのですけども。その中で実感を込めて書かれていたのは、その土地に本来自然に自生していた木々を見極めて、それらの木々を密植・混植して森づくりをすると、数年後には何の介入をしなくとも自然に維持されていく森が出来上がっていき、どんどん元気な森になっていく、ということ。
自然が作り出すものは、そのようになっていく…。
宮脇先生いわく、人間の作るもの、たとえば堤防などは、作って完成した時点がそのものクオリティが最高の瞬間で、以後どんどん劣化していく。
でも自然本来の森は、その逆で、植樹の時点=森をつくった時点からさらにどんどんクオリティが高まっていくのだそう。この日本列島の潜在的自然植生であるタブやシイなどの照葉樹は地中深くに根を張っていくので、暴風や津波の際にも踏ん張りがきく、頼りになる森になる。雨風や津波になぎ倒されるどころか、雨風から背後の建物を守るし、311の津波の際には流されてきた車などを堰き止めて被害の拡大を防いだという実例もありました。
育っていくにつれて、どんどん頼もしさを増していく森。
自然本来の姿の森は、そういうポテンシャルを持っている。。。薪になるから、とか、建材になるから、という人の都合で植えた木々からなる森と、自然本来の森とは、そこが違うんだそうです。
ひとくちに森といっても違うのだな、と学び、そここにある森を見るときの目が変わってきました。
■その地にあった姿の森
ほんとうに嬉しかったのです。前から自分が好きだなー、ここ心地いいなーと思う場所が、宮脇先生の本の中で、植物生態学的に自然本来の姿に近い森なのだ、と書かれていたことが。
好きだなーと思う場所、それは神社の境内や街中の小さなほこらのまわり。神社は、なかには人を祭った神社もあるので、そこは正直お参りする気持ちにあまりなれませんが、いずれにしても神社や小さなほこらのある場所は、こんもりとそこだけ木々が密集して育っていて、空気が気持ちいい。。敷地の大小問わず、です。
ついこのあいだも、用事があって宇都宮に滞在したとき、駅から歩いていける二荒山神社に寄ってみたら、やはりここの鎮守の森も潜在自然植生とされる照葉樹がメインでうれしくなりました。足元にはどんぐりがどっさり落ちていた。
二荒山神社は本殿横のシンボルツリー的な木もシイでした。本殿横の木はクスノキなことが多いので、そこも印象に残りました(ちなみにクスノキは日本列島では潜在自然植生種の一員ではないけれど、自然植生種たちに許容されている樹種だと宮脇先生はおっしゃっています)。
後でネットでしらべると、宇都宮の街自体が、二荒山神社の森を中心に栄えてきた街なのだそうでした。
東京のど真ん中の明治神宮の森も好きです。特に本殿の裏手に広がる広大な森。とてもいいのです。
■手をかけ続けて維持する森
潜在自然植生の森づくりの場合は、つくったあと2、3年でもう手を放しても森はそのまま育っていって、クオリティをあげていってくれるんだそうです。いっぽう、人間都合で樹種を選んで植樹した森の場合は、何年にもわたって手入れをしつづける必要が。
スギ、ヒノキの森などは建材として利用できるようなものに育てるには枝打ちや間伐が必須。建材としての利用をあきらめた場合であっても、間伐しないまま放置するとひょろひょろになって自然災害に弱い森になっていってしまいます。針葉樹は根はりが浅いのでただでさえ倒れやすい…。311のときも、津波で流された海岸沿いのマツがそのまま内陸部の建物を襲ってしまった、ということがあったそうです。
広葉樹からなる里山の雑木林も、かつて薪・炭や生活道具づくりにさかんに利用されていたのが、時代の変遷とともに利用されなくなったいま、雑木林として保っていくための手入れが必須。。。そうした手入れは、高い志と地域愛のある個人やNPOの方々の肩にかかっているような印象を受けます(ケースバイケースかな、地域によって違いはあるのかな、と思いますが……。来年1月に広葉樹林について学ばせていただく機会をいただけたので、そのころにまたレポしたいです)。
そうした森も、誰の手も入らずに、ながーい時間が経っていくと(200~300年間)、やがて、おのずと潜在自然植生の森に近づいていくだそうです。
あらためて、自然というのは、文字通り「自ずから然り」となるもののことを指すのだなあと、知らされます。
自然まかせだと200~300年かかるプロセスを、さまざまな潜在自然植生種の苗を育てて、まだ苗木が小さいうちに密植・混植することで、20年~30年で森を復元できる。宮脇先生はその手法を編み出して、植樹活動を展開されていました。
(私も先日初めて宮脇方式での植樹に参加させていただいて、うれしかったです。そのときのことはサイトのほうに書きました↓)
■「つくったあとに育つ」ことを踏まえた、ものづくり
森づくりになぞらえていいのか躊躇するところですが、願わくば、ものづくりも「つくった瞬間が最高の状態で、それ以降劣化していく」よりも、「使うほどに育つ」ものであってほしい、と思っています。
人間側の意図を押し当てるばかりになるよりも、木に内在する「自ずから然り」の部分がなるべく残るように、と。
枝の曲がり具合や、木の中の繊維の流れ。ありのままのそれをなるべく尊重した形につくっていくこと。繊維が断ち切られずに通っていれば、細くても一定の強度が保たれるのは、やはり自然の力ゆえ。
△もみじの剪定枝の曲がったところのカーブを活かしたフォーク。
道具として人生をスタートしたあと、さらに「育っていく」ようになってもらうことを考えると、最後の仕上げ方法の選択も変わっていきます。革製品などもそうですが、天然素材のものの場合、使い込むほどに味わいが増すようにつくることができますね。
木製品の場合、ウレタン樹脂などで表面を固めてしまえば、プラスチック製品なみの扱いやすさになりますが、使い込むほどに味わいが増すようには育ちません。育ちがフリーズする、というか…。
天然の乾性オイルを塗る、小石でこすってバーニシング(艶出し処理)するなどすると、日常使用に耐える耐水性と、使い込む中で味わいが育っていくことの、両方が叶います。
樹脂で固めた場合よりも、やや扱いに気をつかうことになったり、何年かしたら手入れしたりしなければいけなくなりますが、育っていくモノには愛が入っていきやすいように感じています。
わが家でも樹脂で固めたカトラリーと、天然オイル仕上げのカトラリーと両方を使っていますが、年月を経て愛着を感じるのは後者。ぞんざいに扱っても耐えてくれて酷使できるのは前者なのですが。。
△毎日愛用している手削りスプンたち(たくさんあるうちの2本です😊)。
なんといいますか、暮らしの道具それぞれを、大切に使うことの気持ちよさってあります。どんな物もぞんざいに扱いたいわけではない、というのが心の深いところにあるというか。こんなに忙しくなければ、ほんとうは身の回りのものをもっと大切にして丁寧に暮らしたい、という願いがあるというか。
コンビニエントでファストなものにもたくさん助けてもらっていて、ありがたいなあと思う場面がたくさんあります。でも多少扱いに気を使うモノも、慣れてしまうと気を使ってることさえ忘れるくらいだったりもするし、そうやって扱うときの、時間がほんの少し緩む感覚、スローダウンを促される瞬間みたいなものは、ガンガン進むだけの時間に休符を打ってくれる感じが個人的にはしています。
扱ううえでの気遣いも、たまのメンテナンスも、日常の一部になっていって、日常の中に「少しスローダウンする瞬間」が泡ぼこみたいに内包されていく。
日常にこういう泡ぼこが含まれているのって、なんかいいな、と思うのですけどどうでしょう?
■育つ余地=変化する余地
森も、モノも、自然と育っていくように、変化を歓迎しながら、要所要所で少し手を貸すーーそういう態度にあこがれます。
ものだけでなく、場も、人間関係なども、きっと同じですね。。そのときどきの「最高のちょうどよさ」を求めてコミットしつつ、かっちりつくりこまない、かっちり定めない、ということなんだろうと思います。
変化とともにいられるひとになりたいです。
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