加藤楸邨の一句
牛に煮る古馬鈴薯は人も食ふ
助詞の見事な句です
牛に煮る古馬鈴薯“を”人も食ふ
この馬鈴薯は牛も人も食べるものとして煮てあります
本来は牛のために煮ているのですが、習慣として人も食べている
もしかしたら、小昼のような形で食べているものかもしれません
牛に煮る古馬鈴薯“を”人“が”食ふ
牛に煮るものである古馬鈴薯を人が食べるという意味になります
牛に煮るは現在の様子ではなく、本来はそうであるものという意味です
そこからこれはアクシデントではなく、違うと思いつつそうせざるを得ない状況にあると読めます
牛に煮る古馬鈴薯“も”人“が”食ふ
古馬鈴薯が最低ラインではあるようですが、家畜の飼料であるべきもののほとんどを人が食べています
上の“が”には強意がありますが、こちらの“が”は描写に留まっています
行為に対する悔恨はなく、諦念があるのみです
牛に煮る古馬鈴薯は人も食ふ
この場合は、牛に煮るものはいろいろある中で、古馬鈴薯に関しては人も食べるという意味になります
牛の食べ物と人の食べ物、それぞれの領域があり、それが古馬鈴薯で重なっているという形です
牛のもの、人のものの領域は時代、環境、人によって様々だと思います
それが古馬鈴薯で重なる背景を読み手は想像します
この想像を喚起する力がリアリティなのだと思います
上記の助詞を変えた三句ですが、一句目はさておき、二句目、三句目にも差し迫るリアリティはあります
ただ、困窮という答えが明確でリアリティの底が割れているのです
牛に煮る古馬鈴薯は人も食ふ
楸邨の助詞は読み手に自らリアリティを探り出すことを求めているのだと思います
この句は昭和三十二年作 『まぼろしの鹿』に収録されています
汗の多弁やたつた一語を救はんため
この句にも強く惹かれました
昭和三十七年『まぼろしの鹿』に収録
巻末の「難解だとは言ふけれど」、良いです
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