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篠原梵の一句

千野千佳さんのnoteで紹介されていた『篠原梵の百句』を読みました
岡田一実さんのお名前に、以前セクト・ポクリットに寄稿されていた方ではないかな?と思ったことも読みたいという動機の一つです
こちらの特別寄稿ですが、とても面白かったのです


作品はどれも、この景を確かに私は見たと思える写生句であり、さらにその記憶を視覚以上の身体感覚で呼び戻す、読み手の内側に入ってくるような、句に肉体の見えるような句でした
解説で挙げられている梵の特徴としての下五の字余りが、触れて終わるはずだったものが、ぬっと僅かに入ってくるような感触を残すのだろうかと思いました


一番心に残った句を読みます

水筒に清水しづかに入りのぼる

景を想像します
水筒に清水を満たしています
水筒の水位が上がっているところから水筒は立ててある、清水を汲んでいるのではなく注いでいるのだとわかります
それが、しづかである
清水は勢よく湧き出る、あるいは樋などが設えてあるものではなく、岩肌などに染み出しているものでしょう
岩肌に水筒を添え、水筒が自ずから清水に満たされゆく様を見つめる人の姿が見えます
しづかは清水を描写した言葉ですが、この人もまたしづかにあるのだと伝わります

「入りのぼる」という言葉にはっとしました
水を器に注げば水位は上がります
けれど、これまで私はそのような把握をしたことがありませんでした
水を注ぐとは水が落ちることだと思い込んでいたからです
そのように見える景を、そのように見たことがなかった、見ることができなかった
ものごとを見えるままに見るということが、一度もできなかったのだと気がつきました

この句を知ってから、俳句を詠むとき、今、自分はあの句のようにものごとを見ているだろうか、入りのぼるのような言葉を見つけられるだろうかと考えます
答えは「否」ですが、だから詠まないというわけにもいきません
この引っ掛かりを鋭く深く心に留めるために、思い出すたび「できていない」と自分に言い聞かせていくほかないと思っています

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