獅子の挽歌008
祖父は朝鮮人日本兵だった。名はキム・ヨンス。通名は金子陽明。
祖国では朝鮮の伝統武術テッキョンを、軍役中には空手を学んだらしい。終戦後は沖縄古流空手の修行をしたとの事だ。
50歳で群馬県前橋市に自らの道場「桜獅館」を立ち上げる。
道場には在日朝鮮人も日本人もいた。小さい道場だが、賑わっていた。
精肉店も経営していて、客の入りは悪くなかった。
気難しく、厳しいが、時に優しかった。
親父、キム・ハミンはそんな祖父から幼少より空手を学んでいた。まだ朝鮮人差別をされる事が少なくなかった時代、通名を名乗ることが多かった。通名は金子実。
18歳で祖父より三段を認可されると東京へ出て、「徹真会」へ入門した。
徹真会。正式名称を世界空手道連合 徹真会館という。
昭和最強と言われた空手家、山本徹基(やまもとてっき)が創設した空手流派だ。
徹真会館は空手流派としては異色だった。
それまで空手の試合というのは攻撃を直前で止め、ポイントの多寡を競う「寸止め空手」が主流だった。(実際にはかなり当たるのだが)それに異を唱えたのが山本だ。
徹真会館で採用されたルールは顔面への手技(突きや裏拳、肘打ちなど)以外すべての打撃技を思い切り打ち込んで良いルールだった。
後にフルコンタクトルールと呼ばれるようになる、このルールの世界大会が開催されるようになり、多くの流派が参加する。しかし、上位入賞者はすべて「徹真」の選手であった。
最強の名を手にした徹真空手は支部道場を凄まじい勢いで増やし、日本全国、徹真会館の道場がないと都道府県はない。また海外支部も多くでき、世界最大の空手団体となった。
親父はそんな徹真空手の第3回世界大会の優勝者だった。
また山本徹基に異例の他流試合を認められ、キックボクシングにも挑戦した。12戦12勝7KO。ウェルター級の日本チャンピオンだった。
徹真空手の四段を認可され、本部指導員も勤めた後、俺が生まれた。
俺が生まれると親父は徹真会館を退会し、群馬へ返ってきた。
祖父の道場「桜獅館」で師範代を勤め、沖縄空手に加えて徹真空手の技術も門下生に教えた。
俺は三歳から道着に袖を通していた。
沖縄空手の形をみっちり教え込まれた。
小学生に上がる頃には稽古の激しさは増した。
体を締める三戦(サンチン)の形の際には親父が俺の脚を蹴り、腹を殴り、その練度を確認した。
一歩間違えれば児童虐待だ。
ただ、稽古の後はよく焼肉を食わせてもらった。
親父が経営している焼肉屋の残りだが、とても旨かった。
「うまいか」
キムチをつまみながら、マッコリやビールを片手に、夢中で飯を食う俺を笑顔で見ていた。
キムチは母親がつけていた。
「男の子は強くなきゃ」
よく、そう言われた。
親父は俺に徹真空手の技術やキックボクシングの蹴りも教えてくれた。
俺の得意なムエタイの左ミドルはこの時親父から教わった物だ。
この頃になると、徹真会館が少年部の大会を開催するようになっていた。
俺も含めて桜獅館から何人かの選手が出場した。
小学五年生の時、俺は全日本大会の少年の部で優勝をすることができた。
親父はその直後、失踪した。
置き手紙には「やることができた。すぐもどる。」
とだけ書かれていた。
しかし親父は一週間経っても1ヶ月経っても戻ってこなかった。
ただ、悲しかった。
空手は辞めなかった。空手を続けていれば親父にまた会えると思った。
その頃祖父は80歳を過ぎていた。
指導は続けていたが、体力的にキツそうだった。
また、祖父はフルコンタクト空手の試合技術を教える事はできなかった。
沖縄空手の稽古の後、大人も子供も含めた有志が集まって、徹真会館の試合に向けて稽古をしていた。
俺は朝鮮中学を卒業するまで戦績が振るわなかったが
日本の工業高校で二年生なった頃、全国大会の高校の部で優勝をした。
祖父は俺に三段を認可してくれた。
そして、祖父が亡くなった。
道場生からの強い要望もあり、俺が桜獅館の指導を続けた。
高校生に教わるのを嫌がり、道場を去った者もいた。仕方のないことだが、寂しく思った。
指導をしながら自分の稽古も続けた。高校三年生の全国大会ではベスト8に終わったが、優秀選手賞を受賞した。
そして、高校を卒業する頃、「あの男」が俺の前に現れた。
この頃の俺はあんな“事件”が起ころうとは、思いもしなかった。
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