今後も残り続ける米軍専用施設について
日本の南に位置する沖縄は、かつて琉球王国と呼ばれ、アジア諸国と貿易を通し、中国や日本などから様々な影響を受け、独自の歴史と文化を形成し、繁栄を築いてきました。
その沖縄で住民を巻き込んだ悲惨な地上戦が繰り広げられたのです。
1941年12月、日本がハワイ島とマレー半島に奇襲攻撃を仕掛けたのをきっかけに太平洋戦争が始まりました。
1945年3月、慶良間諸島に米軍が上陸したのを皮切りに沖縄本島は上陸。その後、激しい地上戦は、本島全域に及び、日本軍の司令部が置かれた首里城も米軍による爆撃を受け炎上消失しました。
鉄の暴風と呼ばれるほどのすさまじい爆弾投下と砲撃により、緑豊かな島々が焦土と化し、沖縄県民の4人に1人、一般住民を含め20万人を超える死者を出したのです。
沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、住んでいた土地に次々と基地を建設していきました。1945年8月、太平洋戦争が終結した後に、住民はそれぞれの地域に戻りましたが、基地建設によって、家や田畑を失った住民も多くいました。
その後も米軍は、1950年の朝鮮戦争の勃発など、国際情勢の変化や、本土からの海兵隊の移設に伴い、いわゆる「銃剣とブルトーザー」で住民を追い出し、家を壊し田畑をつぶして、新たな基地を作っていきました。
1956年の経済白書で、もはや戦後ではないとされた高度成長期まっただ中の日本本土では、米軍が起こした事件事故などの不満の高まりなどを背景に、米軍基地の整理縮小が進みました。
その一方、米軍施政下にあった沖縄では、日本本土から海兵隊の移転が進んだのです。
1972年に米軍施政権が日本に返還された後も、本土では基地の整理縮小が進むさなか、沖縄には多くの米軍基地が日米安全保障条約に基づく提供施設区域として引き継がれ、現在でも日本国内にある米軍専用施設の70.3%が沖縄本島に集中しています。
※米軍専用施設:米側が管理し、専ら在日米軍のみによって使用される提供施設・区域
下記の図は、沖縄県における米軍施設の面積の推移を、復帰直前から、現在、今後の未来を示したものです。
1971年6月、当時の愛知揆一外相とロジャース国務長官が両政府を代表して、沖縄返還協定を締結しました。
その締結時の米軍専用施設は、144施設、35,300haもありました。1972年5月の沖縄復帰のときには、83施設、27,850 ha。復帰後も米軍基地が残ることが分かってくると、「基地のない平和な島」を望んでいた沖縄の住民には、不安や失望が広がっていきました。
その後、1995年9月の沖縄県での米兵による少女暴行事件を契機に、日米両政府は米軍基地の整理・縮小を協議するために特別行動委員会(SACO)を設置。
96年12月にSACO最終報告をまとめ、38施設、23,502haへ削減。2023年1月現在、沖縄に所在する米軍専用施設は、31施設、18,453haが残っています。
今後、普天間飛行場の全部返還などが進めば、沖縄に残る米軍専用施設は28施設、17,675haとなります。
逆の考えると、今後、沖縄には、米軍専用施設は28施設、17,675haは、返還されないことを意味します。
とはいえ、防衛省は、沖縄の過重な基地負担を低減するため、抑止力を維持しながら、米軍基地の返還に取り組んでいます。
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