ただ書いてみた
坂口恭平さんが「ただ書く」ことを勧めてらしたんで、なんでもいいから文章を書きたくてやってみた。多少文章を直したところもあるけどまあいいや。
頭を空っぽにして。次何を書くかを考えずに。頭に浮かんでくることを書き留める。どんな言葉が出てくるか、この指に任せる。言葉が出てこないときは沈黙に身を任せる。そういう時間も必要だろうから。何が言いたいわけでもなく、何かを表現したいわけでもなく。ただ。書く。書くことで絵を描く。文字の連なりを紡ぐことはキャンバスに線を引くことと何の違いがあるのか、同じだと思う。文字を視覚情報として、象形としてとらえる。と、いうことも可能だろうと思う。もちろん音としてもとらえることもできる。その時文章を書くことは、音楽を奏でること、あるいは曲をつくること。ということにもなる。キーボードをカタカタ叩く音、これも音楽。ピアノを弾くように文章を書くことは可能だということ。文章を書くことはそれ自体が藝術的な営為ということになる。きっとそうと言える。
いい加減さ。厳密な文章も大事だけど今はいらない。ただカタカタ書きたいだけ。書いて出てきたものに驚きたいだけ。それだけを楽しみに書くということも可能だということを今まさに体験している。頭で理解することは少ない、身体を使ってわかることを重視したい。頭で書くより、身体で書く。そういうことも最近大事だなと思っている。
スピノザの自由について、昨年末のNHK「100分で名著 スピノザ 『エチカ』」の回を見てから、「自由ってこういうことか」と身体で分かった気がした。スピノザは身体でわかるのがいいと思う。スピノザの自由とは、おおざっぱな自分の理解で言うと「自身の活動能力を最大限に伸ばす」ということ。各々人それぞれに適した環境の中で自らの身体を上手に使い、生かす、そのことで活動能力を最大限に伸ばす。そういう生き生きした状態。それが自由だ。だから自由になるためには自分には何ができるのか探る作業になる。
自分は何が得意で何が好きで何が苦手で何が嫌なのか。それらを理解するためには実験が必要になる。実験をして何が自分によいのかを知るためには身体的な感覚として上がってくる感覚を大切にしないといけない。その時、他人の目とかは気にしてはいけない。感覚が鈍ってしまう。自分のこころと正直に向き合い、何が好きか問いかける。自分の身体が喜ぶのを感じたらそれは「よい」ことだ。自分の喜びの源泉を見つけることができ、自分の幸せを追求することができたら、幸福な生き方と言えるのではないだろうか。
そういう生活は自分に合った生活であり、自分の活動能力を十全に発揮しうる生活であろうし、つまりその生活は自由な生活ということになるだろう。そこに至るためにはひたすらに、自分を知るということが大切なのだ。自分の身体や、こころが脳に訴えかけてくる、快、不快に真摯に向き合うこと。社会的な価値観で押さえつけてやらないこと。簡単に言えば他人の目を気にしないこと、そのことが大切なんだと思う。
誰に読まれるでもない文章を指に任せて書くことは、清々しい。昔は筆に随って書いていたんだろうけど、今は指に随って書く。いわば随指。それがこれ。この文章。今日は満足したのでここで終わり。
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