
断片的に記述する
断片的に記述するので、私以外には良くわからないものになるし、不正確である。日記か?日記ではないな?
なにか、趣味が必要だと感じる。自分が100%熱中できるなにかだ。
私は、いつも言葉と思考という2つの対象を考えている。そこから派生して意味、主体、意識、責任、意思、そういった概念に食指が伸びる。
人間の思考ピクセルが言語であるということを暗黙の前提と考えていたが、そうではない人種が存在する可能性について知った。ビジュアルシンカーである。
論理性にも多様性がある、という論考について知った。作文教育と歴史教育が2軸のスペクトラムを形成し、分類すれば4象限にマッピングできるという。
チーム形成という点で、どんなアプローチが考えられるか?1つは、同じ種類の論理性、思考タイプの人間だけでチームを構成することが考えれれる。もう1つは、構成メンバー全員に多様な思考タイプと論理性を理解させることが考えられる。
実現すれば非の打ち所なく素晴らしいが、実現困難で、具体的に実現する方法もわからない状態Aと、比較的容易で具体的に実現可能で、現在よりは改善されており、理想との乖離はある状態B。私は常に状態Bを指向するべきだと考えている。これも思考の癖だ。
ある意味で、意思は存在しない。責任は虚構である。虚構であっても、その概念が不要だということにはならない。責任の仮構を要求する利点がある。
意思は存在するとも言える。意思は、過去からの連続性を切り離す鋏だ。ただし、我々が素朴に考えるような、あるいはデカルトが考えるような、私個人に由来するものではどうやらない。死神ようなものががどこからか現れて、鎌で過去を刈り取る。そのとき死神が狙うポイントが、私の意識や行動のどこか、であるだけだ。
すくなくとも現時点で私は(ハイデガーのようには)過去を切断することが不吉とは感じないから、死神という表現は適切ではないかもしれない。ガベージコレクターとでも言うべきだろうか。とにかく、意思は自分のものではない。私有できるものでもない。ただただ、それが発生する現場が自分の意識や行動である、というだけである。自分が主体となって過去を切断するのではない。自分の行動をある時点で振り返ったときに、それが過去から切断されていたと見えるなら、そこに意思があったことになる。
人間は、すぐに辻褄をあわせる。全員が、信頼できない語り手である。語る内容は、現実がどうであるかということと関係はあるが、すべての意識や行動が厳密に首尾一貫している訳でもないし、語る内容が真実であるわけでもない。嘘を吐くという意味ではなく、語ること自体が辻褄合わせである。これは推測だが、自分という概念を持ち、自分は過去の自分とも未来の自分とも連続的で、首尾一貫しているのだと認識=誤認する個体が、生存に有利だったのではないだろうか。
自己同一性という仮構が、時間という仮構を形成するのに都合の良い土壌だったと考えるのは穿ちすぎだろうか?しかし、アイデンティティは連続性を演出する巧みなトリックであるように思える。逆に、それ以外にアイデンティティが要求される理由があるだろうか?