命を燃やせ。ラーメン二郎
――もう、これで終わってもいい。明日から動けなくなったって構わない。つま先からてっぺんまで全身全霊で、" 今 "に賭ける。" 今 "じゃなきゃ駄目なんだ。エンジン全開。見る前に跳べ、命を燃やせ。
―――――――――そういう瞬間が、人生には否応なしに訪れる
ドクン…ドクン…心臓の鼓動が加速する―――
「オレは..." 今 "なんだよ!!」
あらゆる主役が、このようなセリフを吐く
己のピークを自覚したものだけが、ありったけの死力を、その身に漲らせることができる
僕はそんなシチュエーションに憧れていた。
そして僕にもその瞬間が訪れた―――
では、ぐんぴぃの" 今 "とは――――
―――――ラーメン二郎のカウンターのことだ。
命を燃やしながら、ど太い麺を土手っ腹に掻き込む。ラーメン二郎に訪れた者は、みな主人公になる。
―――ラーメン二郎。開店前より長蛇の列は当たり前、言わずと知れた名店だ。尖った椅子は、立ちっぱなしで疲弊した足を癒すことはない。だが決闘を控える戦士たちにはそれが丁度いいという気風すら見受けられる。
「説明は才能の無駄遣い」とは孤高の才人 立川談志の弁だが、説明すると"小"ラーメンがすでに他店が提供する倍の麺量で、カロリーは1500Kcalある。大なら2000KCal、トッピングでさらに増す。マシマシ。一食で成人男性の一日分の摂取量を超える衝撃的な栄養価だ。
半端な覚悟では、あまりの量に到底飲み込まれる。しかし半可通に時間は残酷なほど与えられない。ロット乱しは有罪。鉄の掟だ。
もちろん完飲完食すれば、体にいくらかの健康被害があることは想像に容易い。
(健康被害のイメージ)
―――だが、美味いのだ。美味い美味い。美味すぎる。
チャーシューはぶ厚く、豚と呼ばれる。肉塊なのだ。基本的にこの肉塊を楽しみにしている。
"原始の食物、まるで儀式の供物かのような肉のつぶてをみて、固いのだろうな、と思案するのは当然だろう。それが経験というものだ。しかし、舌先に触れるや否や、肉は"ほどけていく"のだ。TVショーのグルメリポートで、馬鹿の一つ覚えのように繰り返されては辟易するまで耳にした、"口の中で溶ける"とも異なる食感。
噛むと肉汁と染みたカネシ醤油が氾濫するナイル川のように押し寄せ、間もなく口いっぱいに溢れる。なるほど。これが文明を栄えさせるエネルギーの濁流なのだな。河口はひとたまりも無い。
おや。顔が濡れている。涙が頬を伝っていた" (ぐんぴぃの日記 令和2年7月3日より)
三田本店ではこのような肉を時折 口にすることができる。巷では"神肉"と呼ばれている。運が良くないと食べられらない。神肉ガチャを回すしかないのだ。
これを完食して店を出たとき、これより美味しいものがあと何度口に運べるだろうかと絶望してうち震えたことがある。
他にも二郎ラーメンは魅力が多い。
刻んだ生ニンニクの風味と辛さは食者を一撃で仕留める。他方で脂は甘い。プリンを惹起させる極上の甘露。麺はうま味たっぷりのスープをぎゅっと吸っている。私が好む店は野菜も甘いので、スープや麺と調和する。
それらを口に含むと、舌に張り巡らされた神経が混乱する。不快とも快楽ともつかない混沌(ケイオス)の中、脳内麻薬が潰したニキビより出づる膿のように溢れるのが分かる。つまり、幸福洗脳である。
量が多く、行きづらい方もいるでしょう。
よければ共に向かいましょう。貴方が残した二郎は、私が食べます。私はレンタル二郎食べるぶさいくです。
とはいえ、昔も私は大ラーメンは食べられなかった。学生時代は小ラーメンにトッピングをいれただけで、ぜえぜえ言いながら赤ら顔でなんとか完食していた。
しかし近年、大ラーメン豚ダブル全マシを食べたあと、ローソンで枝豆おにぎりを買っても大丈夫なぐらい成長した。胃が膨張しているのか、食べれば食べるほど強くなるらしい。野性のビルディングスロマン、ここにありだ。
私はルームシェアをしているのだが同居人たちには二郎は控えるように、最近では禁止すら言い渡されている。理由は二つ。一つは食後に放つ二郎臭が原因だ。垂涎ものの二郎臭だが、生活圏内に持ち込まれると不快であるらしい。
「お前、ラーメン二郎の厨房の中ぐらい臭うぞ!真横でいらっしゃいませ!!って絶叫されてる気分だ」と怒鳴られたことがある。主にニンニクの臭いなので、最近はトッピングの量を減らして善処している。
そのおかげか「今日は はす向かいにラーメン二郎があるぐらいの臭いだね。遠くからいらっしゃいませ、って聞こえる感じ」と言ってもらえた。
もう一つは体に悪そうだから。私の体重は上昇し続けており、先日は118Kgを記録した。
以前、ラーメン二郎を食べてる最中に鼻血を吹いたことがある(二郎とは別件だが、健康被害を疑われた)。2年間のルームシェアの契約だが、万が一その間に死なれたら困るから、という。
だが、二郎は"今"なのだ。中年になったら二郎は食べられないと、引退していく人たちも見てきた。命は燃やすぐらいが丁度いい。
最近は都内では荻窪店がどんどん美味しくなっていて楽しみだ。
仰々しく書いてしまった。だが致し方ない。
二郎とは、デブを詩人にするものだから。
おわり。
P.S.
ここからは私信です。読み飛ばしてください。
僕がラーメン二郎にハマるきっかけになった、「ラーメン学」というインスパイア系のお店が1年ほど前に閉店しました。
相模原にあるお店で、「カレー」のトッピングが絶品でした。ここでしか食べられないので都内に引っ越してもよく通いました。
店主は不器用な方でした。ドスの効いた低い声を出して、お客さんを睨みつけるという接客業のセオリー度外視の姿勢は賛否を分けました。頑固オヤジを通り越してカタギの人に見えない時すらありました。しかし仲良くなると照れ笑いを浮かべて接客してくれました。
相模原で羽虫が大量発生した夏、店内にも羽虫が飛び交っていました。インドみたいな衛生観念だと思いましたが、行列は変わらなかったのは凄いと思います。味第一主義。
近年、店名が変わり「スパルタンヌードル學」になりました。店主のスパルタな性格を反映したとしか思えない異例の店名で、二郎インスパイアからの脱却宣言がなされました。提供されるラーメンも以前とは全く別物になりました。その辺りから私は足が遠のいてしまいました。以前のあの味が食べたかったからです。
しかし、自分にも厳しい店主は二郎のお膝元でラーメンを作り続けることに疑問を抱いたのでしょう。マイルス・デイビスが常に新しいジャズを模索したように、まだ見ぬラーメンに挑み続けたのでしょう。
最終日に店に通った二郎ブロガーと、店主の会話が特徴的です。
「もうラーメン屋はやらないんですか?」
「もうラーメン屋はやらないです」
どんな挫折があったかわかりませんが。
私はあのカレートッピングのラーメンが忘れられません。ありがとうございました。