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サークル「じぶん綴り方」今月のお題「私が今、行きたい場所」

参加しているサークル「じぶん綴り方」の、毎月のお題に関する記事の投稿。毎月、来月こそは、早めにやるぞ、と思いながら。
なお、サークル「じぶん綴り方」については、リンクを御確認ください。

ずばり。

答え:「あの世」

はじめにお断りしておきます。自殺願望はまったくありません。

でも、行きたいところ、という問いかけに、この答えは、そう誤解されるかもしれません。
あくまでも、観光旅行として、「あの世」に言ってみたい。だから、もどってくるのが前提です。したがって、自殺願望などはまったく関係ありませんので、ご安心ください(誰も私が自殺することを心配していないか(^^;)。

なぜ人は人生の行く先に不安を覚えるのか

若い人に不安を訪ねると、将来、たとえば、進学とか、就職があがってくるのは、その比率の変化はありますが、いつの時代も同じ。
私くらいの年代にこの質問は、「老後生活設計」の不安としてあがってくる。

それって、たしかに、生きている間の不安、たとえば、生きるのに必要な収入は確保できるのか。人として、全うできる健康を維持できるのか(ちなみに、私は、たとえ要介護5の状態でも、人しての生命を全うしていると思いますが)。などなど不安をもつことは、はずれてはいないと思います。

でも、それを突き詰めると、死んだあとどうなるのかがわからない不安ではないでしょうか?

わからないけれど、死を前提に人生計画をたてる

人が死んだら、いや、人だけではないです。動物も、植物も、死んだあと、どうなるのか。たぶん、だれひとりとして知らない事象だと思います。いかに生きるかを考えることは、いかに死ぬかを考えることだ、というお話もありますが、死んだあとがわからないから、ここにボーダーラインが引かれるということはいえるのではないでしょうか。

そうすると、わからないから蓋をする=無視をするという方法も一つです。ただ、一つはっきりしているのは、どうなるかわからないけれど、いつか死ぬということです。だとすると、死後はわからないけれど、死ぬことは前提で、人生計画をたてることは、理に適っているのではないでしょうか。批判もあるかもしれませんが、それは、中高年の「もしもノート」作成講座で伝えればいいことではなく、極論、物心ついたころから、もっと考えることに取り組むべきではないかと私は常々思っています。

なにかを語り合う場を、○○カフェなんて表現をすることがありますが、その一つに、デスカフェがあります。死をかたりあう場ということになりますが、私は、実は身近(物理的に)にそれがあることを知らないので参加したことはありませんが、デスカフェは、物心ついた幼稚園くらいの世代から、あたりまえのように参加して、語り合う場があってもいいのでは? なんて思っています。

大切な人の死、自分の死を現実に感じたとき

大切な人が亡くなるかもしれない、ということを現実に知った瞬間。これは、誰もがもちうる経験だと思います。そして、事故にあって難をのがれたとか、死病を宣言されて生還したとか。そんな形で、自分の死を現実として感じることは、平和な日本にいても、大人になるまでに一つや二つはあると思うのですが、そうでもないでしょうか?

そんなとき、うろたえずに対応できるか。

30分程度の手術ということで、手術室に送った母が、4時間をすぎても手術室から出てこない。すると、執刀医から、カテーテルが思わぬところを貫通して、大量出血し、措置をしているけれど、止血できるかわからない。確実に止血するためには、開胸手術が必要だが、その手術にたえられる体力があるかは保障できない。親族として、どちらを選択しますか?

そう言われた経験があります。当然、うろたえました。

実は、先週の土曜、死ぬかもしれない場面に遭遇しました。持病に関連する発作で、深夜に自宅の居間でたおれていました。たまたま電話があって(こんな時間に電話してくるのは非常識だと思いますが、今回は結果として…)、それで辛うじて意識がもどって、対処して助かった。そんな場面でした。自分の死を現実に感じた場面の一つでした。それを、すなおに冷静に受けとめられるか…。

お化けはわからないから怖い

「お化けの正体みたり」なんてことばもあります。これは、枯れ薄というわけですが。
わかってしまえば、怖くもなんともない。

いや、むしろ、「あの世」は、楽しい場所かもしれない、という期待もあります。楽しい場所かもしれないと期待するから、観光旅行でいってみたい。
かりに、楽しい場所ではなかったとしても、それがどういう場所なのかがわかっていれば、今後の人生計画をたてやすくなりませんかね…。

そんなわけで、行きたい場所は、あの世というわけです。

お断り

この時期にこの記事は不謹慎かもしれません。ウクライナの地域にいる方(ウクライナ人はもちろん、ロシアの軍人も含めて)は、死に直面しています。それは、自分で選択する余地もなく。これほどのきつい状況はないと思います。だからこそ、デスカフェでなくとも、死というものを日常的に、あたりまえに考えたり、意見交換をできる場があって欲しいと思います。その語り合いが充実すれば、人を殺す、その最たる戦争がへることに少しは役立つかもしれない、と思いながら。

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重い話題だったので、最後に軽いトーク。

また、夏休みの宿題を8月31日にやる状況になってしまった。
これを改善しなければ、とあらためて思うのでした。
うーん、このラストは実に平和な話だ(^^)

トップの画像は、みんなのフォトギャラリーで「あの世」で検索して、イメージにあったものを選択させていただきました。ありがとうございます。

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