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2022.01時点で思うmy“しゅぎょう”

 参加している「じぶん綴り方」というサークルを主催しているれんげ舎では、「「自分らしく在ること」と「他者とつながること」の両立を追求する取り組みを(中略)「しゅぎょう」と呼んでいます」(れんげ舎の公式noteより引用)。
 サークル「じぶん綴り方」は毎月2つのお題が出ますが、その一つが、 「あなたの「myしゅぎょう」は?」。
 というわけで、私の“しゅぎょう”を考えてみました。

そもそも自分とも他者とも繋がる、という視点について思うこと

 “しゅぎょう”を考える前に、そもそもれんげ舎に最初にアプローチしたのは、2019年の「場づくりクラス」でした。
 地域コミュニティの運営もそうですし、そもそも私の仕事では、お客様と良い場で打ち合わせ、相談ができることが重要です。ですから、「場」の設定というのは、大事な要素になります。とくにこの頃、地域コミュニティと、会議の場で、いろいろうまくいかないことあったので、この、場づくりクラスに参加してみよう、と思い、参加したのがきっかけでした。
 そこで、場は、自分をまずはしっかりと見つめること、受け止めること。それが基本にあるということを、テクニックの他に学びましたが、15回の講座の中で、常に、「自分だけではなく、他者とつながっていること」を強調していました。場づくりですから、自分一人の自己満足で、自分を追求しても意味はありません。そして、私自身、場づくりクラスで学んだことのうち、自分とも他者とも繋がる(強調します、両方であることを)というところが、一番共感したところでした。ですから、“しゅぎょう”は、一番共感した部分のアプローチということになります。
 私のフリーテーマの note の記事でも、「力を抜く、自己観察。自分と人とつながる。それって‥」で書きましたが、人との繋がりがあってこその、自分の深掘り、自分の探究だと思うのです。

負けず嫌いでムキになる

 私自身、自覚のある自分の特色としては、何にでもムキになることは挙げられると思います。一所懸命、というと耳障りが良いのですが、ムキになるという表現の方が私自身、私のイメージに合っています。
 もうひとつあげるとすると、結構負けず嫌い、でもあること。ただ、ちょっと「なんちゃっ負けず嫌い」です。
 というのも、多分、人の人生の分水嶺があり、「負けず嫌いだから努力する人」は、きっと大成するのだと思います。「負けず嫌いだからそもそも勝負を避ける」というのが私です。だから、なんちゃって。わたしは、努力が嫌いでもあったします。
 そんな2つが同居しているのが私だと、今の時点では自分のことを観察しています。

 だから、勝負を避けなかったことはなんでもムキになります。結果として、仕事も趣味も、料理などの生活の側面でも、地域活動においても、今、生きながらやっていることは、全てムキになってやっているな、と思うのです。なんといいますか、ムキになってやらないと、なにか居心地が悪い。ソワソワしてしまう。とはいえ、それで体が持つの? 

ムキになって手抜きする
 若い頃は、親に感謝します。そうやっていても、壊れない体に産んでくれたことを。そこそこ? 頑丈なわけです。本当にそう思いました。
 ただ、さすがにこの10年くらいは、無理が利かなくなっている。人生100年時代でも、後半ですから…。
 そこで生み出した活路が、「ムキになって手抜きする」でした。詭弁、言葉遊びみたいですが、手を抜くときは、ムキになって、徹底的に抜く。今日はサボるぞ、と決めたら徹底的にサボる。浅い考えでなんとなく手を抜くのは、ムキになる精神がいらいらしてしまいます。いつ、どうやって、そして、手を抜いたらそのあとどうなるのか。その責務を受けいれる覚悟があるのか。また、他者とのつながりという観点では、それで悪影響を与えないか。そういうことを徹底的に考えて、手抜きすると決めます。そして、決めたからには、徹底的に手抜きする。
 そう考えるようになるまでは、なんとなく充実した作業ができなかったとき、人さまが働いているときにおやすみしていたり(病気のときなどを含む)すると、罪悪感と、取り残される不安ばかりでした。でも、こんな風に、ムキになって手抜きする…これは、結果的には、自分で自分のことを決めて行動する、ということです。そうするようにしたら、手抜きして充実して他のことをすることもできるようになったし、おやすみならば、心身ともに休まる時間をすごせるようになった感じがしています。

myしゅぎょうは結局

 そんなふうに思う、2022年1月30日現在のわたしにとっての、myしゅぎょうは、なにごともムキなること。そして、ムキになって取り組めたこと(手抜きやおやすみも)はすべて“しゅぎょう”だと思うのです。
 ちょっと“しゅぎょう”をあまくみていますかね…。でも、他者とつながることを無視して、自己満足でどんなにはげしい修行をすることよりも、自分とも、他者ともつながることを意識して、ムキになって、すべてのことに取り込もうとする(ここは、ちょっと控え目。「取り組んでいる」ではなく「(それが不十分だと思うところもあるので)取り込もうとする」です)のは、それでも、よりストイックなものだとわたしは思います。
 他者とのつながりは、自分とつながる上で、大事な要素。それを見落として修業しても、意味がないとすら思います。

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トップの画像は、みんなのフォトギャラリーで「一所懸命」で検索して気にいったものをいれさせていただきました。ちなみに、「しゅぎょう」では、ひとつもヒットなし。先日、ポッドキャストの番組で「修業」と「修行」の違いが語られていましたが、修業ほど表面的・技術的ではないし、修行のように宗教的な側面はないので、この3つの検索はあきらめた経緯があります。実社会では、修行、修業より、“しゅぎょう”が一番実践的なのかもしれません。

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