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孤独。まとまらないな~

以下の記事をきっかけに、いや、正面きって、いうことではなく、なにかの場面ごとに、孤独というものを考える機会が増えた。まとまらないなー。でも、まとまらないのが、孤独というテーマの本質かも。
 
孤独の効用、期待と実態、リスクへの態度について語る!   

れんげ舎noteより

 この中で、孤独を感じたことはない、ということは、自分と向き合ったことはなかったのか。そんな“迷路”の存在に気付いてしまったのだけれども。

以下、自分でもまとまっていないので、あえて、目次や段落を意識しないで、だらだらのままの記事としました。
 
 孤独、にかぎらず、なにかに一目散のときって、それ以外を考える余裕はあるだろうか。
 いや、疑問形、反語的な表現にしましたが、これは明らかに「無い」だと思います。
 いや、「無い」ではなく、考えてはいけない。
*a

今、ウクライナ情勢に対する日本の世論が、ちょっと話題になっているらしい。
 第三者目線で、ロシアが一方的に悪いわけではない、という目線も必要ではないか。しかし、今、戦争だか、虐殺だかわからないけれど、大量の人がよくわからない理由で殺されていること(これは、ウクライナの人だけでなく、ロシアの軍人もふくめてだと思う。別に闘いたくて戦場にいったロシア兵ばかりではないと思うから)は、とめなければならない。そのためには、声をあげなければならない。他方で、それをとめるために、徹底的にロシアを批判していたら、とめられたあと、再発を防止する場面になったら、大きな足かせになる。だから、盗人にも三分の理、かどうかはわからないけれど、現場、現状、現時点の過剰な勢いの中で、一歩ひいた意見も否定されていけない。と、私は思います。が、そんな日本の雰囲気はあまい、というお話らしいです。

 ちょっと話題がそれましたが、一目散のときは、そんなもんです。一目散の状態が終わったあとのことまで冷静に考えているようでは、まだまだ“一目散さ”が足りない。と、私は思うことが多い傾向があります。  

 さて、脱線の脱線から本題にもどりまして…。
 
 私が孤独を感じたことがなかったのは、何かに一目散だったからではないか。と、いう視点からの記事です。
 
 海援隊の歌にもありますよね。

 「働け、働け、働け鉄矢 働いて、働いて働きぬいて、休みたいとか遊びたいとか
  そんな事おまえいっぺんでも思うてみろ
  そん時は、そん時は、死ね。それが人間ぞ、それが男ぞ」

(「母に捧げるバラード」武田鉄矢詩より)

これ、リアルタイムで聞いていて、応援、大きな目標に旅立つ息子に親がいうのならば許されるかもしれないが、こう言われて、追い込まれてしまう人は大勢いるだろうな、なんて、実は感じていました。時代も違う。もうほぼ半世紀前の歌ですから。今の世の中、こんなこと言ったら、人権侵害と言われてしまうでしょう。

あ、また脱線してしまいました。脱線があまりにも多いので、本題にもどりますが、読んでくださっている方がわかりやすいように、*a という印のあとが脱線です。ですから以下は、*a までの続きです。

考えてはいけないどころか、考える暇もチャンスもなかった。
そんなきつきつだったのか、といえば、それはまた少し違う。
ぎりぎりでキツイかどうかではなく…うまくいえないのですが、考える必要がなかった、というのが、微妙に当時を表現しているのかな、と思います。

考える必要がない、自覚のない孤独の状態から、考える必要をなくしていた一つの糸がプツンときれました。
そして、恋人? 愛人? そんなものは必要ありません。友達? そんな面倒なものは求めません。
いや、恋人と愛人と友達って、何が違うンでしょうかね…それもわからないですが。

ただ、なんとなく“仲間”は欲しいかな、と気付いたのが、その一つの糸が切れたときだったかもしれません。そして、プツンとひとつがきれたあと、“仲間”をもとめて具体的な行動にも走っています。そんな私自身の最近の変化からも、思った次第です。

ここはニュアンスです。友達と“仲間”とどう違うのか、具体的に説明しろ、といわれたら、「申し訳ございません」とあやまるしかありません。わかりません。でも、ニュアンスの違いがあることは、同意していただけないでしょうか。

一人でいろいろやってきたなー、と、気付かされることがこの数年、なんどかありました。
でも、たぶん、一人だと思っているだけで、いろいろな方に気付かないうちに支援されているはず。それに気付かないのは、無能としかいいようがありません。気付くくらいのきめ細やかさが、人間社会をいきるために必要だとしたら、いきるのをやめるしかないのかな。  でも、「みんな同じくらい悪い」と、中島みゆきさんもかつて歌っていましたし。みんな同じくらいきめこまやかではないのが人間社会だから、生きていてもいいのかな。

そういう側面もあることはたしかなのですが、11年にわたる親の世話の最後には、介護施設や病院の関係者から「今まで一人でやっていたんですか」と、驚かれて、「え、それがあたりまえじゃないの」と、思ったことは、ちょっと印象的でした。いよいよ“親戚を呼んでください”みたいな場面になって、連絡するべき親戚はいないし、今まで治療方針だって(どっちをえらぶかによって、生きるか死ぬかわかれる場面でも)、相談したことは一度もなかったし。今さら、だれに連絡するの? というのは、正直な気持でした。

億単位の損害賠償をおわされるかもしれない失敗をしたこともありますが、それとて、会社がまずはおって、その責めを会社に負わされるのではないのです。自分が前面ですべて負うのです。そんなことがあったとき、あ、一人で仕事をしている、というのは、そういうことなんだなー、と思った瞬間もありました。

そういうのがあたりまえ。そういうのが日常ですが、それは、孤独なんでしょうか?

たしかに、きついと思うことはあるけれど、自分で考えて自分で決められる。そんな自由(自由には責任も伴う)の中で、それを謳歌しているのだから、孤独(言葉の定義としては、寂しさを伴う、という側面があるそうです。ちなみに、孤立は、支援を受けられるつながりがない、という意味合いで、寂しさとは無関係)とは違う気がします。

ムーミンに出てくるスナフキン。
彼は、孤独と上手につきあっている象徴のひとつだと思うのですが。
では、スナフキンに、ムーミンというしりあいがいなかったらどうだろうか。自分なりの答えはまだないのですが、ムーミンのいないスナフキンは、ちょっと違う状況になるような気がしてならないのです。


冒頭の画像は、「静か」で検索してヒットした中から、イメージに近いものを利用させていただきました。提供してくださった方に御礼申し上げます。
このテーマでなぜ「静か」? 過去の投稿で、ある歌手のファンであることは書いていますが、その歌手の古のアルバムに収録されていた「静かに」という楽曲を思い出してのそれでした。

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