第1話 ビニール傘
6月、梅雨到来。今日も雨が降っている。それでも、毎日散歩は欠かさない。散歩はボクの生活の大事な一部だ。
レインシューズにはこだわりがある。爪先を滑り込ませるだけで履けるものがいい。だから流行りの靴紐タイプはなし。色はどんな服にも合わせやすい黒。ちょっと高かったけど、色々見てから買ってよかったと思う。大切に使っていきたい。
あと、傘にもこだわりはある。ビニールタイプで周りが良く見えるもの。こちらはコンビニなんかで買える安価なものでもオッケー。どこにでもある傘だとお店の傘立てに置いていたら盗まれちゃうから、持ち手に「RIHITO」って名前を書いて、消えないようにクリアテープを上から貼った。
防水タイプのトートバッグを肩にかけて、玄関の鍵をかけて指さし確認。アパートの敷地から一歩外へ出ると、傘がぽつぽつぽつりとリズムを刻み始める。
「かなり降っているね。理人、大丈夫かい?」
その声は、子どものようにまるくてコロコロとしていた。それでいて、大人のように落ち着いた口調はなんだかちぐはぐで、彼と初めて会話したときの戸惑いは昨日のことのように思い出せる。
「このくらいなら平気。濡れるって点で心配しているなら、ボクよりも君の方が心配だよ」
ボクはトートバッグからクリアタイプのポーチを取り出す。中には真っ白な犬のぬいぐるみが入っている。
「ここより安全な場所なんてないさ。それにしても、ぬいぐるみを持ち歩くための専用ポーチなんて売っているんだね。素晴らしい世界だ」
そう言って、ポーチの中で彼は笑った。
一か月前。部屋に飾っていた犬のぬいぐるみがしゃべり出した。彼は「コムギ」と名乗った。
ボクは頭がおかしくなったんだと思った。病気になったんだと思った。幻聴が聞こえたんだと思った。実際に、その頃のボクは生きる意味について考える時間が少しだけ増えていた。
喋り出して早々、彼は自分を外へ連れ出せと言った。空の広さを感じたいと言った。そして、大地を歩く君の振動を私にも分けてくれと言った。
別に強制されたわけじゃない。断ったってきっと彼はボクに危害を加えたりはしないだろう。
でも、つるりとした黒いボタンの瞳に見つめられると、少しくらい付き合ってもいいかなと思うのだから不思議だ。
「来訪を告げる雨音。幾重にも走る透き通った流星。実に美しい」
コムギは傘越しに空を眺めながら、しみじみと呟いた。
コムギは不安を煽るような言葉を使わない。それがボクにはとても心地よくて、病気だとか、幻聴かもしれないとか、そんなのどうでもよくなった。
むしろ、真実を知るほうが怖かった。この世にコムギという人格が存在しないと決まってしまうのが恐ろしかった。
ボクは雨模様の空を詩的に語る友人を失いたくなかった。たった一か月で、コムギはボクの生活の大事な一部となっていた。今は彼との毎日をひっそりと楽しんでいる。
「世界は輝いている。理人もそう思わないかい?」
「ああ、本当に眩しいね」
黒いボタンでできた瞳に映る景色を、ボクはもっと見ていたいんだ。