第2話 三拍子
しとしと雨の中を歩く。ガードレールの足が一本、また一本と通り過ぎるのを眺めていると、思い出すことがある。
「小学生の頃、朝は姉ちゃんと一緒だった。お母さんが一緒に登校しなさいって言ったから。でも、姉ちゃんは仲の良い友だちとおしゃべりがしたかった。弟の面倒なんて嫌だったんだよ」
独白のようなボクの言葉だって、ポーチの中の君は聞いてくれる。だからボクはそのまま話し続ける。
「ボクは姉ちゃんの友だちにいっぱい話しかけた。姉ちゃんは生意気だって思ったみたい」
「人の友だちを取っちゃいけないってことかい?」
「それを嫌がる人もいるってこと」
姉ちゃんの気持ちを理解できないのか、コムギは、むむぅと唸りながらふわふわの腕を組んだ。
「だから姉ちゃんはボクを黙らせようとして、タイムスリップの仕方を教えたんだ」
「タイムスリップ?」
「うん。ガードレールの足から足までの歩数を数えるんだ。こんな風にね」
いち、に、さん。
いち、に、さん。
ボクは一本のガードレールの足からスタートして、次の足に到着するまでの歩数を数えてみせた。
「真剣に数えるのが大事って教わった。そうしたら、あっという間に学校に着くって。実際やってみたら、本当にあっという間だった。少し先の未来に着いちゃった気分だった」
「夢中ってやつは簡単に時間を溶かすからね」
「本当にそうだね。ボクは数えるのに夢中になって静かになった。姉ちゃんの作戦は大成功だったってわけ」
雨粒の数が減ってきた。なるべくバッグを濡らさないよう内巻きになっていた肩を伸ばす。温かくて水分を多く含んだ空気を吸い込む。
「あの頃は歩幅も小さかったから、大体五歩くらいだったかな。いち、に、さん、し、ご……ってね。ずっと下を向いて数え続けた。今思えばもったいないことをしたなぁって思う」
「もったいないって、何がだい?」
「えっと……順を追って話すね」
「どうぞ」
コムギはいつだってボクが伝えたいことの輪郭がよく見えるように質問してくれる。そして、ボクが絡まった思考の紐を辿っている間も待っていてくれる。だから、安心して話せる。
あの頃の姉ちゃんは待てない人だった。でも、仕方ない。ボクだって今以上に話をするのが下手だったし、お互い幼かったんだから。
「この間、ネットで知り合った友人と通話していてさ、登下校のとき何してたって話になったんだ。ひとりは看板や表札なんかに書かれた文字を片っ端から読んでいた。ひとりは虫を見つけたら素手で捕まえていた。ひとりは雲を動物に見立てて遊んでいた……アスファルトばかり眺めていたのは、ボクだけだった」
小さかったボクは毎日タイムスリップを繰り返した。その分だけちょっと未来にたどり着き、その分だけ大人になった。
今になって、あの溶けた時間が惜しい。
コムギと散歩をするようになって、自分を取り囲む景色の楽しみ方を知った。
布団の中身みたいな鱗雲。
野道に咲くカタバミの黄色。
道路を横断するネズミ。
電柱のかっこいいシルエット。
すべてがボクに刺激を与えてくれると知った。感受性豊かな子どもの頃に味わえたら、どれほどよかっただろうと悔しくなった。
「いつまでタイムスリップを続けていたんだい?」
「つい最近まで。というか、ほぼ無意識に飛んでいた」
タイムスリップの良いところは、何も考える必要がないことだ。
制服を着るようになって学校生活が息苦しく感じたり、大人になったのにままならないことばかりで嫌気がさしたり、そういう憂いを感じる時間から逃げるのにちょうどよかった。
ガードレールがなくったって、ボクは飛べるようになった。上司のシャツのボタンとボタンの間を歩く妄想をしたり、何もなければ頭の中に数字を浮かべるだけで、時間が溶けるようになった。
「タイムスリップできたから、今、生きているのは確かだよ。でもね、今までタイムスリップした時間を考えたら、同い年の人の半分も生きていない気がするんだ。それってなんだかさ……」
色々な言葉が浮かんだ。どれを選んでもみじめになるから、口に出すのは止めた。
いち、に、さん。
いち、に、さん。
今もガードレールの間を歩きながら、ボクは飛ぼうとしている。
「踊ろう」
「え?」
未来へ飛びかけていたボクの意識が引き戻される。コムギの言っている意味がわからなくて、真意が知りたくて、ボクは歩く速度を緩める。
「ああ、立ち止まらないでくれ。ほら、そのまま歩き続けるんだ」
よくわからないけど、今よりも悪いことは起きない気がした。ボクはコムギに言われた通り、また歩き出す。
あん、どぅ、とわっ。
あん、どぅ、とわっ。
ボクの代わりに、コロコロとした声が三拍子を刻む。
フランス語でのカウント。たったそれだけで、ボクの歩みはいつの間にかステップに変わっていた。
あん、どぅ、とわっ。
あん、どぅ、とわっ。
「いいぞ、理人。君にはワルツの才能がある。タイムスリップなんかよりもね」
歩幅は同じ。でもテンポは速くなっていく。じんわりとシャツに汗がにじむ。酸素を求めて呼吸が大きくなる。とわっのタイミングで息を吐くと気持ちがいい。
「飛ばなくていい。踊ればいい」
踊ればいいと言われたけど、ボクはまた飛んでいた。
でも、行き先は未来じゃない。
三拍子のボクが、五拍子だった頃のボクの手を握る。