リアルな気配を求めて
インフルエンザ流行による学級閉鎖が解除され、ようやく誰もいない家で執筆作業ができる。
けれども、どうにも集中できない。机の前に座っていられない。すぐに気が散ってしまい、気づけばSNSに手が伸びる。
それなら場所を変えよう。
出不精の私の気が変わらないうちに、近所のコーヒーチェーン店へ向かった。
開店から30分。すでに半分近くのテーブルが埋まっている。コンセントがある共有テーブルの右端を本日の拠点に決めた。
クリームの上に散りばめられた飴色の芋チップ。滑らかなフローズンの中でザクザクとした食感が楽しい。期間限定の秋の味覚を堪能しつつ、制作ノートを開く。
家にいたときの落ち着きのなさは何だったのだろう?
ボールペンが走る。あっという間に1時間が過ぎていた。
お金を払って席に座っているのだから、元手を取るつもりで作業を進めたいという意欲。
同じテーブルでキーボードを叩く人の真剣な眼差しによる刺激。
どれも作業が捗った理由だけど、それだけではないと思った。
談笑する人。
注文する人。
本を読む人。
視界の端に、必ず人の気配があった。
だから落ち着いて椅子に座ることができた。
家にいたときの、あの居心地の悪さに名前をつけるなら、きっと「寂しさ」だ。
どうやら、私は寂しかったらしい。
本来の私は人込みが苦手だし、できるなら家から出たくないインドア派なので、この事実に少し驚いた。
それにパソコンを開けばネット上の友人がたくさんいる。時には通話を繋いで夜遅くまで語り合うことだってある。
だけど、今ならわかる。
足を組みなおしたときの衣擦れ。
ミキサーを洗う勢いのある水音。
本から視線を離さずにカップを傾ける影。
友人との語らいの中の控えめな笑い声。
このリアルな気配は、通話アプリに浮かぶアイコンやヘッドホン越しの音では得られないものだ。
私には家族がいる。リアル世界で一人ぼっちというわけではない。
でも、家族は肌が触れ合うくらい近くて狭い。学級閉鎖中は常に「母」としての役割を担っていたので、互いに干渉し続けて疲れていたところ。
私が求めていたのは、誰かの気配を感じるけど干渉してこない絶妙な距離感だった。
そして、私自身も風景の一部として溶け込むことで安心感を得ている。
離れすぎてもダメ。近すぎてもダメ。
こんなにも面倒くさい人間なのに、頭の隅っこで「群れていないと不安だなんて、なんだかかっこ悪い」とか考えているのだから、つくづく難儀なヤツだと思う。
でも、仕方ない。弱いんだから。
きっと私のようにリアルな気配を求めて同じロゴのグラスを手にしている人がいるはずだ。
すっかり身体が冷えてしまった。腕をさすりながら席を立つ。
今度来るときはカーディガンを鞄にいれよう。
そして、なるべく長く誰かの視界の端に居たい。