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第一回ジェネラティブアート・アワード 入賞受賞作品についてと全体的な感想

 第一回ジェネラティブアート・アワードでわたしの作品が入賞🥳しました。


    以下で受賞作品を見ることができます。「生活楽譜 - 演奏」という作品です。

 そもそもジェネラティブアートとは何か、ということについてはジェネラティブアート財団のこのページが分かりやすいと思います。

 受賞した人が言うことではないと思いますが、わたしはあまりジェネラティブアートが何かわかっていません。ジェネラティブアートとはまさにその点で魅力があると感じてます。固定化されたイメージがなく、まだまだ発展の余地があります。そういった意味では、このジェネラティブアート・アワードは第一回目ということもあって、一種の「ジェネラティブアートとはこれだ」という枠の設定にもなりうるものだと思います。もちろんそこには危険性もあります。評価されそうな作品、という固定的な考えが出来上がってしまう可能性があるということです。一方で、こういうジェネラティブアートもあるんだよ、と様々な新しい方向性を示すこともできます。個人的には受賞作品を見ていると、特に入賞作品で後者の意味合いで選ばれていると感じる作品が目立ち、わたし自身とても刺激になりました。

 たぶんみなさん読みたいのは、「アワード全体を通しての感想」だと思いますので、目次からそちらへ飛んでいただければ。


入賞作品「生活楽譜 - 演奏」について

作品概要

 簡単に言うと、楽譜と演奏の二つセットで一つの作品です。
 これが楽譜。プログラムコードにランダム性などは一切含んでいないので、何回実行されても同じ結果ができあがります。

楽譜

 こちらが演奏。プログラム実行結果の一部になります。楽譜のプログラムを核としつつ、なんとなく自分で変えてみたいなと思う要素を変え、回転を加えたり、何度も重ねたり……とにかくなにも考えず好きなようにしました。こちらの演奏のコードにはランダム性があり、実行するたび毎回違う結果が返ってきます。よって下の画像も、毎回違う結果のうちの1つにすぎません。

演奏のうちのひとつ

 楽譜を形作る要素は、わたしの歩数をもとにしています。2023年10月1日から2024年7月20日まで(ちょうど応募するころまでの期間)の、一週間ごとの歩数です。とても個人的な事柄ですが、11月に急に手足が思うように動かなくなり、歩くこともままならない、物も持てない、という状況になりました。脳神経内科に行って、やっと「転換性障害」と分かりましたが、分かるまでにもいくつか病院に行き、診断され治療が開始されるまでに一か月かかりました。寝ていることしかできない、本当に何もできない状態だったので、制作もできません。とくに楽しいこともない生活です。まったく何も生み出せない時期といいますか……人間としてはほとんど死んだ状態だなと感じていました。その間にも、元気だったら参加できていたかもしれない展示があったりワークショップがあったりして、正直とても苦しかったです。
 病気の話で作品の話ではないと思われるかもしれませんが、作品にたどり着くまでにはやはり、病気については触れなければないないもののような気がします。転換性障害は結構やっかいなものです。というのも治療法がありません。解離性障害の中に含まれることもあり、その場合解離性転換と呼んだりもします。大昔はヒステリーと呼ばれていた時期もありました。ヒステリーというと分かりやすいかもしれないですね。症状も多岐にわたりますが、基本的には何らかのストレスを抱えきれなくなり、心でストレスを背負わないよう、身体の部分にストレスを移してしまおう(転換しよう)と判断した結果の病気になります。もちろんわたしの意思決定で判断したわけではなく、勝手にわたしの身体が判断したものです。根本的に個人で抱えきれない何らかのストレス(明確でない場合もあります)が原因なので、薬物療法などでちゃちゃっと治せるものではないです。
 そういった病気の特徴もあり、わたしの心には「いつ身体が動いてくれるのだろう」という不安と焦りが常にありました。何か月も続いたら、何年も続いて治らなかったら……。そういった悶々とした日々を過ごしていました。

アワードのお知らせを受けて制作に至るまで

 もちろんこの作品を制作できているので、ジェネラティブアート・アワードのお知らせがあったころには、たくさん歩くことは難しいけれど、家の中で身体を起こして本を読んだり、好きなことをすることは少しずつできるようになっていました。
 わたしは転換性障害の症状がないときは、ぽつぽつNFTを制作していました。転換性障害がないときも別の障害があるので、やっぱり日々のままならなさをテーマにした作品が多いです。

 今まで「実績」というものがなかったわたしにとって、このアワードは大きなチャンスでした。絶対入賞してやる!と思い、なんとなく今までに挑戦したことがないもの、「データビジュアライゼーション」をしてみたいなと思いました。そこからこの生活楽譜のアイデアが浮かびました。他にもいろいろと考えていたのですが、この生活楽譜はNFT作品として展開させるのが難しいのもあって、アワードにぴったりかなと思いました。また、NFT以外で自分の作品を展開させるいい場所だと確信しました。

わたし自身がこの作品の中で大切に思っていること

 複数性、ということにとても意味があると感じています。下の画像は、きれいな言葉ではありませんが、少し前に衝動で書いたものです。

 「なぜジェネラティブアートなのか」ということにもつながってくると思います。ジェネラティブアートは、多様な結果を展開させることができるものです。だから、わたしは正直受賞作品発表のところで掲げられていたサムネイルについても、一つの結果を提示することに抵抗がありました。この一枚の画像がこの作品なのではない。あくまでも、固定的に定めることのできない、これ!と指さすことのできない広がりそのものが作品なのです。

受賞作品発表で使われているサムネ


複数の結果



 わたしはこの作品内で矛盾したことを行っています。つまり、まず自分を数字という記号に置き換え、「楽譜」にしてしまったのです。わたしという存在は情報になり記号へと変換されました。記号は複製も簡単にできてしまいますし、外部からも参照可能です。人間とはほど遠い存在になってしまいました。しかしこのようなかたちで存在する記号としてのわたしの方が、日常では一般的である気がします。健康状態は体温、血圧、血液検査など数字で判断され、今までも学校では成績がわたしを示すものでした。わたしが人間だったときってあまりないのです。
 一方、その「楽譜」を演奏してみようと思いました。記号に変換されたわたしを演奏するとはどういうことだろうと考え、制作しました。音符のかたちは自由でいい、リズムも一定でなくてもいい、そういったふうに、いったん枠内におさめられたものも、わたしの手によって少し解放できるのではないかと考えました。よって、選んだ色も本当にわたしの好みです。作品のコンセプトに合うように、など一切考えません。いろいろ試してみてこの色合いが好きだなと思うものを混ぜ込みました。そうしてできたのが「生活楽譜 - 演奏」です。
 本来のわたし、わたしという一人の人間は、どれだけの言葉で言い換えようと、そこには収まり切れないほどの複雑さをもつ人であるはずです。これだ!とは言えない結果たち、複数を全部含めたものが複雑なわたしであると考えます。ジェネラティブアートは、そういったからめとることのできない複雑さ、複数性を表すことのできるものだと感じています。もちろん書かれたプログラミングコードは全部数字・記号で出来ています。丸の大きさがrandom(10, 100)で表されていたら、丸の大きさを予測することができます。しかし、そういったどのようになるか分からない装置がコードの至るところに設置されていたら……?数字でとらえることはできるかもしれませんが、その数字によって展開される結果の広がりまでを包括して捉えることはできないと思います。
 わたしはまとめられたくないし、そもそもがまとまらない存在です。人間とはそういうものだと思います。しかし実際には意に反してまとめられてしまったり、勝手に切り取られたり要約されたり、1でしかなかったり、なりたいように存在することができません。たくさんの単純化するしぐさに包まれていると、他者に対してもそういった見方で捉えてしまう。そもそも自分自身が人間であったことが少ないからこそ、他者を人間として捉えることが難しいということもあります。他者を記号でしか見ることができない自分の無力さと、この世界の仕組みに何とか抗いたい。何とかしてその抵抗の記録と、わたしの存在を刻むために作品を作っています。わたしが人間としてここにいる!ということを叫びたいのです。普段家や医療、福祉に閉じ込められるわたしが、外へ出る方法の一つがジェネラティブアートになればいいと願っています。

懸念点と反省点

ポルノ??
 普段自分で勝手に作品を公開する分にはいいのですが、アワード、評価がつきまとう場所に病気を題材にしたものを出していいのだろうか、という葛藤がありました(今もよかったのだろうか、と思います)。決して「演出」しているわけではない、感動的なストーリーに仕上げるつもりはないですし、それはわたしが普段から嫌うものでもあります。しかしいくらわたし自身がそう思っていたとしても、物語として見る人、美化されたものとして見る人がいることは防げないでしょう(わたしの力不足ももちろんあります)。そういった視点で見る人のことを責めているわけではありません。そういった視点で見ること自体もわたしは責めることができないです。なぜならわたしはやっぱり「演出」してしまっているから。意図しようがしなかろうがどの表現も演出になってしまうのかなと思います。そこに、病気というインパクトあるものを使うことで人の印象に残るとか(もちろんこれも意図していませんが、実際にはそうなってしまう、のかな……)、回復=いいことのようにしてしまっていることとか、しかも実際その作品が評価されてしまったわけですから、わたしは病気を消費しているだけではないかと思ってしまうのです。安易な、やわらかく食べやすいように調理されたもの。
 けれども、病気はわたしそのもので、避けることができない事柄です。わたしが何をするにも、つきまとってくるもので、制作するときにいなくなるものではないです。制作中に手先がしびれるとか、震えてキーボードが打てないとか、どうしてもそれはわたしでしかないのです。病気でないわたしなど一秒たりともないわけです。もちろん苦しみのないわたしでありたいと思います。けれど現に苦しみはある。それをわたしは無視したくはないし、わたしを表出すること=病気を表出することなのです。
 いくらわたしがここで弁明しようと、消費されるものであることに変わりはないでしょう。そのことはしっかり自覚しつつ、けれども無視したくない課題として、揺れています。解決されるものでもないので、この課題をわたしはきっとずっと引きずっていきます。
 
 普段の制作では、できるだけ物語として受けとられることを避けるため、作品の断片でわたしをのぞかせるだけでなく、わたしの日常的な事柄(どうでもいいような)もアウトプットに含めるようにしています。また、心の中でわたしと似たような(けれども同じではない)状況で苦しむ人たちを想いながら、決してわたしの語ることが一般的なものにならないよう、個人であることを意識して作品を作っています。個人でありつつ、まだまだ語られることが少ない事象について語ること、普段は医療や福祉の檻に閉じ込められて社会の表層に浮かび上がってこないような事柄を、一つでも多く一人でも多く語りたいと思い、そのうちの一人になりたいという気持ちです。

アワード全体を通しての感想

審査員の方々の真摯で丁寧な姿勢

 普段ジェネラティブアートとはなんだろうか、新しいジェネラティブアートの在り方はないだろうか、などと全く考えていないわたしにとって、審査員の方々の選評は鋭く刺さるものでした。第一回ということもあり、評価を公的に示すことは、今後の作品の方向性、ひいてはジェネラティブアート全体に関わってくるものだと思います。そうしたことを審査員の方々が深く熟考され、議論されたことが選評を読むだけでも強く伝わります。選評を読むだけでとても勉強になりますし、今まで考えたことのなかった領域へ運んでくれます。わたしの作品などまだまだだとでもいうように、審査員の方々の考えが途方もなく、最も評価されるべきはこの審査、審査員の方々なのではないかと思ってしまいました(上から目線ですいません)。
 わたしも頭を叩かれたようになって、もっと深い思考をし、作品だけでなく自分も練り上げていこうと、かすかに心に火を灯しています。広いものを見せていただきました。

他の受賞作品の感想

 他の賞ではおそらく評価されないもの、評価されることが難しいものが評価されていると感じました。わたしは特にそれを、入賞の方々の作品に対して感じました。ジェネラティブアートとして、こういった作品が丁寧に拾い上げられていることに希望を感じます。入賞作品の中には、SNSで提示すること、あるいはどこかで展示することでは魅力が分かりにくいものがあると思います。魅力が分かりにくいことは決して悪いことではなく、アートといえば展示されること、そこで評価、鑑賞されるもの、とする今の一般的なアートの状況が悪です。アートに関わる人々が、そのようなことを前提にして疑わず、展示的作品を評価することは、表現の幅を狭め自分の幅自体も狭めてしまっていると感じます。
 また展示にはどうしてもお金がかかります。わたしのように職がなく病気で、どこにも所属していない人にとってはとても難しい、手の届かないものです。受賞作の中には、展示され鑑賞者と関わることで展開される作品もありました。そういった作品が事後的に評価されてるのもとてもいいなと思いました。しかしそうではなく、展示ではその真価が発揮できないものも、よい作品であると評価されている、そのことがとてもうれしかったです。
 展示を前提としない作品のあり方は同時に、展示を前提にした作品にも新しい場所、今までに発見されていない良さを浮かび上がらせているようにも思えました。展示でしか作品に触れることができない、という状況を打ち破る試みでもあるのではないか。審査員の方々の選評によってそういった新しさも発掘されているように思えます。わたしは身体が動かない症状が出るようになってから、一度も美術館などに行くことができていないので、そういった動きが見られることはとてもうれしいです。アクセシビリティの観点からも新しくおもしろい作品たちだったように思います。

 そういった新しい作品があるにも関わらず、結果として全部展示されることに回収されてしまっている感は否めませんが、展示されることは賞発表時に決められていたことなので文句は言えません。ちなみにわたしは展示を前提にしていないし、展示されるという作品のかたちも本望ではないです(場所をいただけることがないので実際には少しうれしいですが)。これから、展示をそもそも前提としないし、展示以外の方法で「展示」する方法なども個人的にも考えていきたいですし、ジェネラティブアートを制作する方々とも議論できたら、よりジェネラティブアート含めアートが拡張されるのではないかなと思います。これから展示概念の拡張も望みます。

 終わり。あんまり真剣に読まないで!笑
 

山口情報芸術センターでの展示風景
山口情報芸術センターでの展示風景2


 これからもがんばるぞー💪(*•̀ㅂ•́)و✧🔥