わたしはどこにある?―六甲ミーツ・アート2021
また今年も六甲ミーツ・アートへ行ってきた。2021年11月14日。今年は去年よりあまり作品数は見ることができなかったけれど、心に残るものがやはりあった。友だち二人とわたしでワイワイ見回った。
山々を泳ぐ方舟
わたしたちは小屋へ誘われる。大通りから外れた小道を抜けたところに小屋がある。看板には「パルナソスの休憩小屋」とある。満月がわらっているその口の中に「パルナソスの休憩小屋」という文字がある。満月はわらっているようで三日月を喰っている。けものだ。
小屋に入るまでも、けものがひそんでいる。きれいな瞳のけもの。
けれども、このけものの目はあり余っている。身に余るほどの瞳を抱えて、一体何を見なければいけないのだろう。わたしたちは見なければいけないものが多すぎて、目が二つあるだけでは足りないのだろうか。
そんなに監視していなくてもいいよ、とわたしは自分自身に言い聞かせる。
小屋の体内には、けものたちがたくさんいた。
このけものは、ひび割れた生活がかたまりとなって魂を含んだ。青くてきれいな生活は誰の心からも忘れ去られてしまって、青い瞳がひとりでに見開かれる。
風化していくガラスの体内に、風と、日光が溶け込んでいく。やがてはひとつのからだになる。
人のことを忘れた椅子は、誰も座れなくなることで椅子という使命から解放された。あとはただ自分が、この小屋に溶けていくのを待つだけ。
どのけものたちも、わたしは全部抱きしめたい。
山の中で、時代に置き去りにされた廃墟で、育ってきたけものたちだ。廃墟はけものを抱擁する。ひとつの母体。だからこの建物は、人が立ち去ってしまってからも一人ではなかった。
うごめく建築
この教会は、呼吸をしている。
風の教会での作品は、わたしにそう思わせた。
教会の天井にアニメーションが映されている。作者の束芋さんはアニメーションではなく、「教会に天井画を描く」と語っている。天井画か。
しかし、これは絵ではない。そうわたしは思った。これは天井であり、壁の一部であり、境界の一部分だ。これは建物だ。
人がさまざまな感情によって揺らめくように、建物もそのときどきの感情でうごめく。天井が、その様子をわたしたちに曝け出してくれている。普段は見せない建物の肉体を、曝け出してくれている気がした。
アニメーションの中の一つのシーンに、天井が鏡になったような仕掛けがあった。天井には、わたしたちのいる空間がまるまる映される。
わたしが教会にいたのは西日が傾いたころだったけれど、天井に映し出された協会は、数秒の間にいくつもの時間をまたいでいた。わたしは夕方にいるのに、教会の一日を体験したような感覚になった。日がゆらぎ、教会のすきまから差し込む光が揺れる。この教会がいくつもの日を重ねて今にあることを、今この瞬間だけで感じとった。
くるくる脳がまわり、天井が引き延ばされる。天がどんどん高くなって、見えなくなっていく。立っているわたしが、重力を忘れて、天へと吸い寄せられるような不安定さを抱えた。わたしは立っているのか?それとも浮かんでいるのか。この空間にいると、わたしはわたしがどこにいるのか分からなくなる。いつのまにか足が床へ張り付いて根が生えてくる。根は天井へと足を延ばす。やがて、根は教会の脳へと接続されていた。脳から血が、送り込まれる。細胞が、送り込まれる。わたしの中へ教会の細胞が入ってくる。