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発信してもどこにも届かないということ

※クッッッッッッッッッッッッッソネガティブすぎるので注意。


繋がった先に誰もいない受話器へ向けて、必死に語りかけているような徒労感。
返事のこない手紙を、送り続けているような虚無感。

それでも何かを作って、発信するというところまでで一区切りとしている自のは私なのだから、その「無意味」さを受け止めているつもりで。
自分の中でのみ「意味」がある。そう思ってやってる。そのはずなのに。時々、他人への影響を持ちたいという「強欲」がそっとこちらを睨んでることがある。

なんて表現は、あまりにもお上品すぎるか。
時々なんてのは嘘で、本当はいつも他人に承認されたいという欲で頭は満たされていて、それは私を睨むどころではなく大暴れしては私に痛みと傷を与えている。
それでも、私ももういい歳なので、そんな感情との付き合いもずいぶん長くなったもので、「別の考え方があるでしょう」とか「承認欲求は自分で満たして完結しなさい」と諭して押さえ込む。
そんな、毎日。

そして時々、というには結構な頻度で起こっている気もするが、素直な自分の気持ちの方が強すぎて、楽に生きたいがために本心を隠したがる自分の方が折れてしまうことがある。

承認欲求が悪いものだなんて思ってない。何かを創るからには、誰かに知って欲しくて、誰かの心に響かせたくて、そんな気持ちを抱くことが間違ってるとは思わない。
でも、長年やってきてもう十分苦しんだ。誰かに見てもらえるほど美しくなれないこと、誰かの心を打つほど歪にもなれないこと、そのための努力をできない自分を責めること。

溢れんばかりの賞賛を両手に抱えて涼やかに笑う人。羨ましいと思う一方で、この人は裏でどれだけ汗を流したんだろう。ここにくるまでどれだけ心を痛めたり、涙を流したりしたんだろうと、想像する。
挫けそうな時もあったかもしれない。それでも、好きなものを自らで創り上げるため、自分の理想に近づけるための努力を諦めなかったのだろう。
そう考えると、私には羨む資格なんてないと思った。

そもそも、発信してもどこにも届かないなんてのは嘘だ。見てくれてる人もいる。それはもちろん、そうしてもらえる場に出したから「参加賞」としてそうしてもらえただけな部分もあるかもしれない。
それでも、わざわざ私の作品に目を通すことに時間を使い、心に残ったことを私のところに届けてくれた人もいる。それのどれほどありがたいことか。
たった一つでも、ちょっとした一言でも、私の作品が誰かの感情を揺らしたことを喜べばいい。いや、喜んだ。この上なく嬉しかった。
なのに結局、私は最後に数を引き合いにして悔し涙を浮かべた。

恥ずかしいって思うし、情けないなと思う。申し訳なさもある。

でも、魅力的な人が軽やかであるその姿を見て、私はまた自分を呪う。

こうやってまた、「誰も見てくれなくても構わない」という隠れ蓑の中で、吐瀉物みたいに作品を垂れ流す。
本当は愛してるくせに。自分の作ったものを、心から愛しているくせに。
「生理的に生み出される廃棄物」みたいに自分の作品を落として。
時々人の集まる場所に近づいては、また傷ついて、その繰り返しで。
そうやっていつまでもいつまでも、呪いのように、私は苦しみ悶えながら何かを創り続ける。
その苦痛を、努力の結果として生み出す方向へ進めばいいのに。それもできぬまま。

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