責任を負うことが億劫であるということ
決断する、ということがひどく億劫に感じられることがある。
感じられることがあると表現してしまうと、それほど頻度が多くないことのように見えてしまうが、まま頻繁にある。
なぜ決断するという行為が面倒くささを引き起こすのか、少し考えてみた。
簡潔に言えば、決断には責任を伴うからだ。
自分が決めたことがきっかけで問題が発生すれば、私は自分を責めることになる。
この「自分を責める」ことがそもそもおかしいところなのだが、認知の歪みによって自責感情が異常に強いためそうなってしまう。
誰かが決めてくれば、その判断によって何か不都合が起こったとしても過剰に反応することはない。他人には寛容でいられる。
だから私は、決断することが多い日々をしんどいと感じていた。
その一方で、私が判断しなければならない状況を自ら生み出しているという部分も少なからずあって、結局は自分が悪いと結論をつけてはストレスを溜め込んでしまう。
この考え方の根本にあるのは、まず何においても自分が悪いんだという、無条件に自分を悪と捉えている認知の歪みの問題だ。
そしてもう一つ。他人もきっと内心では、決断を下した私に対して責める感情を抱いているという妄想だ。
勝手に思い込んでは、判断することを私に押し付けたくせに!と内心キレ散らかしてしまう。
妄想の世界で他人を悪者にして、勝手に罪悪感を抱えては怒ったり悲しんだりしてしまう。一人相撲もいいところだ。
しかし、近頃考え方が変化して認知の歪みも正されたことで、この悪癖が改善されてきている兆候を感じることができた。
まず私の周りにいる人はいい人ばかりで、もしも私が強硬に独断で何かを決めて動いたとしても、そのことを責めたり馬鹿にするような人はいない。
だとしても、根本的に「他人が私を責めているかもしれない」と考えるのをやめることは難しい。
なので、別に他人に悪い印象を持たれたとしても別にいいじゃん、と考えるようにした。
他人が私に対して何を思うのかは、私から決して分かることがない。だから、私を責める感情なんて抱くはずないよ!と考えるよりは、何を思おうと相手の自由であると考える方が精神衛生によろしいと考えた。
そう考えると、決断をするということにかかる負担が少し軽減されたように感じる。
少なくとも他人への罪悪感を抱かなくてもよくなったかから。
他人が「判断を委ねる」という判断をしたのだから、それによって起こった不都合は結局他人のものなのだ。
それを「あいつが悪い」と思うのか、自分の責任の範囲を理解して受け入れるのかは相手次第だ。
なので、何か選択肢を私自身が選ぶ必要があるときには「私が選んでいいの?ラッキー!」くらいに受け取ろうと思う。
最近色んなことに対して切り替えが早くて、前よりちょっとだけ生きるのが楽になったかも。
諦めるとか我慢するとか考えると苦しいから、そもそも自分を苦しめるその考えに囚われる必要ってある?って考えるための材料を日々増やして行ってる。
嫌だと思っていることやイライラとすることについて、自分が変わろうとするのは「負け」だと考えていた節があるのだが、それは全然勝ち負けの話ではないと気づいた。
私は自分の心が自由でいられる変化を受け入れていこうと思う。
クドクドとした文章になっちゃったかもな。