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サービスがお金で買う対象だってことは小さい頃から教育すべき

 お金で買える対象は大別して2つある。モノサービスだ。

 モノは、ペンだったり化粧品だったり車だったり、そうした物体を指す。
 他方でサービスは、代筆やエステ、タクシーへの乗車など、他人にしてもらう何らかの行為を指す。

 モノとサービスは同じ金銭で買える対象ではあるが、区別されている。
 社会のルールのうちで最も厳格なもののひとつである法律でも、モノに対する権利は物権、人の行為に対する権利は債権と呼んで、別の取り扱いをしているくらいだ。


 このように異なるモノとサービスだが、人間の認識の問題として、形のないものに対する価値を直感的に把握しにくいという特性があるようだ。
 たとえば電子書籍は紙の本よりも軽く感じられ、安くすべきだという論調は根強いし、ゲームソフトのパッケージなども、どんどん小さくなっていって説明書も含めて全てダウンロード形式になることを寂しがる声があったと記憶している。

 中身の情報がメインともいえるこうしたコンテンツでさえ、物体としてのガワがあったほうがいいという声は多い。つまり、それだけモノに価値を見出す人がたくさんいるということだ。
 この感覚が、反面で形のないサービスの軽視につながる。

 とりわけ日本では、「おもてなし」はお金を取って行うことではなく無償の心遣いであるという文化や感覚が根強いようで、それもサービスとお金を引き換えにしづらい要因のひとつかも知れない。


 だが、サービスはあくまでも基本的にはお金で買う対象だ。この感覚は、教育などで幼いうちから身につけさせておいたほうがいいと思う。
 なぜなら、そのような感覚をもっていないと数々の弊害が出てくるからである。

 第1に、他人のサービスを軽視するようになり、自分のサービスも軽視されることになるからだ。それは感謝の気持ちを失わせ、ギスギスした社会を生み出しかねず、またサービス残業のような違法状態の温床となる。

 第2に、お金で買える対象とそうでない対象の区別が曖昧になるからだ。たとえば、性的な奉仕はお金で買えたとしても、愛は買えない。しかしサービスをお金で買うものだという認識が欠けていれば、性的な奉仕に対価を支払っているはずなのに、相手の愛を買えたと勘違いする者が出てくる。

 第3に、自分が売ったり買ったりするものの本質がわかりにくくなるからだ。たとえばフォローやサポートに真価がある製品を買う際に、モノとしての製品を単体で買ってコスト削減ができたと思い込むおそれがある。電化製品を買ったはいいが設置オプションを付けず、自分だけでは取り付けられないといったケースだ。

 このほかにもいくつか考えられるだろう。


 サービスの価値というものを考えるとき、価値の大小を論じる以前の問題として、そもそもサービスがお金を払う対象だという認識が薄い人もいるようだ。だから、デジタル万引きのように「モノは盗んでいないんだからいいじゃないですか」みたいなスタンスの者が出てくる。

 これを防ぐには、サービスとは買うものなのだという素朴な感覚をきちんと教育で教えたほうがいい。

 レストランで空のお皿だけ並べられていても仕方がないように、価値は人の行為、すなわちサービスこそが生み出すものだ。あらゆるサービスを買うべき対象だと認識するからこそ、お金やそれを稼ぐ労働行為の価値も適切に判断できるようになる。

 それが「経済教育」というやつだと思う。



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