「他人に興味がない」というのはダサいか
少し前、「他人に興味がない」と公言するのは格好悪いといった趣旨の意見を見かけた。他人に興味がないこと自体はともかく、それを公言して憚らない――しかもどこか得意げに――メンタリティが仄かに気色悪く、ダサいのだという。
これはわからないでもない。誰かからしつこく問いただされたならともかく、聞かれもしないのに自ら興味がないことをアピールしているのなら、それはむしろ逆の内心を吐露しているように見えてしまうからだ。一種のイキりと捉えられても仕方がない。
けれども、他方で「他人に興味がある」というのも、それはそれで程度や方向性によっては気持ち悪さが醸し出されるものだと思う。たとえば他人の不倫や権力闘争、稼ぎなど、いわゆるワイドショー的な情報に目を爛々とさせているような人は、品があるとは言い難い。
つまり、他人に興味がないのはダメで、他人に興味があるのは良い、という理屈が常に成り立つわけではないということだろう。
ただ、個人的には、皆は言うほど他人に興味をいだいているのかとの疑問がある。「他人の功績」、とりわけ自分に利益をもたらす仕事には興味が湧いても、「他人そのもの」には関心がないという人が大半なんじゃないだろうか。たとえばSNSなどでは、イラストレーターの手になるイラストは見たくても、イラストレーター本人の生活に絡む投稿は見たくないから出さないでほしい、みたいな意見も珍しくない。
ネットの発達で、個性や能力だけを抽出した関係性が成り立ちやすくなってからは、「他人そのもの」に興味を持つということが起こりにくくなってきているような気もする。
そのうち、画面の向こうにいて自分の気に入る返信や投稿をしてくれる存在がAIだとしても、自分が関心を持てない「他人」などよりよほど興味を惹かれるという時代が来る――いや、もうすでに来ているのかも知れないが。
そうなると、興味の有無以前に、そも「他人」かどうかという点が揺らいでいるわけで、事ここに至ってはダサいかどうかなんてどうでもいいんじゃないか。