邪悪な発想に対して「人の心がない」なんていうけれど
あれってちょっと違うんじゃないか。
むしろ、人の心もちゃんとあるし、人の心がどういうものかきちんと理解しているからこそ、邪悪なことができる面もあると思う。
たとえば、ガス室送りにする予定の人たちが手荷物を素直に手放すようにするため、ナチスは連行したユダヤ人らに自らの鞄へ名前を書かせた。
言うまでもないだろうが、そうすることで手荷物を手放す側は「預けた鞄をほかの人の私物と取り違えないようにできる=(暗黙の前提として)預けた鞄はちゃんと返してもらえる」と思うので、抵抗せずに手荷物を係員へ引き渡すという仕掛けだ。
もし鞄に記名させなかったとしたら、手放す側は「相手は鞄が誰のものかわからなくなっても構わないと思っている=そもそも鞄を返すつもりがない=自分たちを生きて返すつもりがない」と推察し、集団で抵抗した可能性もある。これを防ぐための一手として、名前を書かせるというのは非常に効果的だったようだ。
たしかにこの手法は邪悪といえるが、人の心がない、あるいは人の心がわからない者から出てくる発想ではないとも思う。私物に名前を書けば安心する――こういう心理を熟知しているからこそ出てきた考えだ。世が世なら一流のコンシェルジュになれていただろう。
人の心のあるやなしやを問題にするとき、「人の心」を出してくる側は、共感や同情、憐憫といった、いわゆる惻隠の情を念頭に置いているように思える。
だが、どうすれば自分のダメージを避けながら相手を傷付けられるか、いかにして相手から利益を最大限に吸い取るか、といったことに思考を巡らせるのもまた、人だろう。
きれいな部分だけ切り取って「これぞ人の心である」とでも言わんばかりの仕草は、ちょっと自論に都合が良すぎる見方なのではと思う。きれいなものも邪悪なものも等しく人の心だからこそ世の中はままならないのに「邪悪なものは人の心ではない」みたいに捉えてしまうと、見るべきものが見えなくなってしまいそうだ。
邪悪な発想や行動にも人の心は通っている。いや、そうしたものにこそ心の豊かさの発露が見られる可能性すらある。それは人の心がうつくしく清らかだと信じる人間にとって受け容れ難いことかも知れないが、目を逸らしてはならない部分だと考える。
人の心は邪悪にも染まれるのだ。