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傘をどうぞ(短編小説・秘書と専務シリーズ2)

【あらすじ】
秘書×専務シリーズ2。幼馴染。ブロマンス風味。お気軽会話劇コメディ。
ビルの高層階の一室。男は仕事に集中できないのか、午前中だけで何度も秘書の名前を呼び間違えていた。その日、専属秘書の榊は見合いで休んでいた。


 高層ビルの上階。今にも水滴を零しそうな重い曇り空が広がっていたが、男は気にすることなく目の前のパソコンを睨んでいた。
「榊󠄀、この資料……」
 声に出してから、はたと気付く。
「専務」
 返事をしたのは名前を呼ばれた榊ではなく、女性秘書だった。
「本日五回目ですが」
「う、すまん……」
 男は居たたまれず手元の書類でそそくさと顔を隠す。
 秘書の女性に「本日五回目」と言われたのは名前の間違いだ。
 今目の前にいる女性の名前は榊󠄀ではない。いつも男の傍にいる専属秘書である榊󠄀は、本日休みをとっていた。
 そのために、一ヶ月程前からスケジュールを合わせ、他の秘書と連携を取り、滞りなく業務を進められるように調整も行っていた。
 もちろん男も承知だった。榊が朝出社していないことも確認済である。それなのに、男は午前中だけで五回も榊󠄀の名前を呼んでいた。
 目の前の秘書もさすがに呆れているが口には出さない。
「どちらの資料をお持ちいたしましょうか」
「え、ああ、ここの数値の詳細がわかるものが欲しい」
「かしこまりました。少しお待ち下さい」
 秘書はそれだけ言うと、専務室を後にした。

 男はくるりと椅子を翻して、窓の方を向いた。はめ殺しの大きな窓は開くことができない。どんよりとした灰色の空しか見えなかった。
「せっかくの見合いなのにな」
 ポツリと言葉を落とす。
「気になりますか」
 急に後ろから聞こえた声に、男の心臓は跳ね上がり、ついでに椅子からも転げ落ちた。
 いつの間にか秘書が戻ってきたらしい。
「大丈夫ですか? 専務」
「大丈夫ではない。ノックくらいしろ」
 立ち上がりながらそう言って睨んだものの、秘書は相変わらず涼しい顔をしている。
「しましたが」
 本当か? 眇めるように見ても秘書は平然としている。
「資料をお持ちしました」
 男に書類を渡す淡々とした態度に、諦めてまたデスクに座り直す。
「ありがとう」
「いいえ」
「……」
「……専務」
「何だ」
「資料が逆さまです」
 男は慌てて手元の資料を正常な位置に戻す。
「気になりますか」
「気にならない」
「まだ何のことかお尋ねしていませんが」
「~~~~」
「面白い顔をされても困ります」
「面白い顔なぞしてない。……榊といい、ここの秘書は私に対して辛辣すぎないか」
「専務がお優しいので」
「別に優しくはないが、そう言われたら悪い気はしない」
 秘書は思わず吹き出しそうになるのを何とか耐えた。表情さえ変えないのは日頃の対応の賜物である。この専務の秘書をしていると予想外な出来事は多々ある。それを片付けるのは主に専属秘書である榊だが、彼女たちもその例外ではない。
「お優しいついでに」
 秘書は本題に入る。
「榊さんに傘をお持ちになっては?」
「傘?」
「はい、雨が降り出したようですし」
 振り返ると、重い雲からとうとう耐えきれずに、こぼれ落ちた雨の雫が窓を伝っている。
「私がなぜ傘を榊に?」
「午前中は雨が降っていなかったので、榊さんは傘をお持ちではないと」
「だからなぜ私が、」
「本日は急ぎの案件もありません。それと仕事に集中できていないようですし、気分転換のランチのついでに榊さんに傘をお持ちになってはいかかがと思いまして」
「いや必要ない。あいつは今日は見合いだ」
 男はばさりと手元の資料をデスクに置いた。
「〇〇ホテルの近くの△△レストラン、限定ランチが今話題なんですよ。美味しいと噂です」
 男の言葉に構わず、秘書が話を続けた。秘書が言った〇〇ホテルは、現在榊が見合いをしている場所だった。
「そ、そうなのか」
「今ならまだ間に合うかと」
 秘書はチラリと時計を見た。ランチのピークまではまだ時間がある。
「そ、そうか。そうだな。たまには足を伸ばして違う店のランチを食べてもいいな」
 男はそう言うと、スーツのジャケットを手に取ると、隅のロッカーから傘を持ち出した。
「いいか、俺はランチに行くだけだからな」
 男は念のため、もう一度秘書に向かってそう言った。
「心得ております。いってらっしゃいませ」
 秘書が頭を下げるのを見届けて、男は専務室を後にした。男の目的がどちらなのかは、言われなくとも秘書には明白だった。

 男はタクシーに乗り込み、行先を告げる。腕時計をちらりと見る。榊はまだ見合いの最中だろう。秘書に言われたからというわけではないが、男はランチのついでに榊に傘を届けるつもりでいた。
 傘を届ける前に先にランチを済ませるか。いや、ホテルのフロントに話を通して傘を預けてくればいいだろう。その足でランチに向かえばいい。別に榊と顔を合わせる必要もないのだ。
 男はホテルに着くと、フロントに向かおうとしたところでふと立ち止まり、なぜかそのままラウンジに向かった。
 日本庭園が見事なホテルだった。天井まで届く大きな窓がある広いラウンジからも、小さな滝や池や、丁寧に手入れのされた植木を楽しむことができる。
 男は雨にしとどに濡れる緑を眺めながら、珈琲を飲んでいた。
「専務?」
 耳慣れた声が男を呼んだ。ふと顔を上げると、傍らに榊が立っている。
「どうしたんですか? こんなところで。今日休みを頂いているのは私だけのはずですが」
 見定めるように、榊は男をじっと見る。
 急に居たたまれなくなった男は、手元の傘を持ち上げた。
「雨が降ったから、お前に傘を届けに来たんだ」
「傘ですか?」
 榊は首を傾げながら訝し気に男を見ている。
「フロントに預けて頂いても良かったのでは」
「そうしようと思ったんだが、傘を一本しか持ってきていないことに気付いた」
「ぶっ」
「今笑ったか?」
「いえ。なるほど。一本だけでしたら、預けていくわけにはいきませんからね」
「そうだ」
 男は榊の周りをきょろりと見渡す。
「見合いは終わったのか?」
「はい」
「そうか。じゃあ、帰るか」
「そうですね、わざわざ専務が迎えに来てくれたことですし」
「わざわざじゃない。ランチのついでだ」
「なるほど」
 榊は、テーブルの上のチェックと傘を持って会計に向かう。男はその後をついて行く。
 ロビーを通りホテルを出る。長い庇を出るところで、榊は傘を開いた。
「一本しかないですが、ご一緒してもよろしいですか」
「嫌味だな。仕方ないから一緒に入ってやる」
「恐れ入ります。では専務、傘をどうぞ」
 開いた傘を半分ずつ使いながら、二人は歩き出す。霧雨のようなやわらかい雨は、傘を差さなくても問題ないくらいだったが、その傘が閉じることはなかった。
「お断りしましたよ」
 榊がぽつりと呟いた。
「そうか」
「嬉しそうな顔をするのはやめてくれませんか」
「俺より先に結婚が決まらなくてよかった」
「そうですね、まだしばらく子守に専念する必要がありそうですし」
「お前~」
「ところで、ランチはどちらへ?」
「あ~、別にどこでもいい」
 男はあさっての方を向きながらそう告げる。
「そうですか? じゃあ、この辺りに美味しいラーメン屋さんがあるので、そこでもよろしいですか?」
「ああ」
「では、行きましょうか。少し歩きますが」
「構わない」
 そぼ降る明るい春の雨の中を、一つの傘を差した二人の男が連れ立って歩いていく。

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