「夏草や」13年ぶりに震災後の故郷を訪れた
幼い頃から見慣れていた太平洋は、あんな色だったと思い出した。灰を含んだくすんだ青色。あれが私の知っていた海の色だった。
旅をして色んな海を見るようになったが、懐かしいと思うのはこの海の色だ。
今年の6月のある日、家族でかつて住んでいた故郷を訪れた。十三年前、東日本大震災の被害に遭った故郷だ。原発からは二十キロの辺りにあった。
高速道路を下りて国道に入る。昔海沿いを走っていた国道は山側の高台に移動されていた。車の中からは海は見えず、見えても遠くにしか見えない。旧国道は下に見える。道路は残ってはいるが、走る車は見当たらなかった。
海沿いの道を走ればすぐ真横に長い海岸線が続いていた。夜の海に浮かぶ月が作る、細く長く伸びる月の道が好きだったのを思い出した。変わらないと思っていた当たり前の風景は、当たり前に続いていくものではなかった。
長年住んでいた町に着いて、変わった景色に不思議な感覚を覚えた。残っている建物もある。でも当時あった建物や家の八~九割は失われていた。
駅は新しく改装されて、津波で流された街並みは形を失い、かつての道の形も変わっていた。見慣れていたものはなかった。駅の周りやメインの通りには新しくアパートやホテルも建っていた。
時折車を停めて町を歩いた。知らない町だった。建物や家がなくなった場所は夏草に覆われていた。道だけが残るどこかわからない風景があった。
車で町中を進みながら家があった場所に向かった。建物や家がなくなるだけで、こんなにも道が分からなくなるものかと実感した。何十年もそこに居たのに、確かに知っているはずの場所なのに、なかなか記憶と結びつかない。
ここは誰の家、あそこには誰の家、と記憶を頼りに見ていたが、そこにあるのは夏草だけだった。
恐らくあえて残してくれている、家の境界線を目印に探した。それがなかったらあんなに見慣れていた風景も家も探すことは出来なかった。
辿り着いた家の前で車を停めた。かつてのブロック塀の下部を目印に探した。ここに家があったという確かな痕跡は、それしか残っていない。それがあったから、ここに住んでいたことが幻ではないのだとわかった。それほどに分からない。
そこにはやはり夏草だけがあった。
この辺りが玄関で、茶の間で、台所で、風呂場で、庭で、奥に仕事場があって。草むらを歩いてもその面影は何一つなかった。
夏草の中に庭木の痕跡はあるだろうかと探してみたがなかった。今は夏草が生い茂っているが、家を取り壊した後は恐らく更地だった。
夏草の中で家族皆がその景色を眺めて呆然としていた。それは悲しみではなく、本当に何もなくなったという事実を目の当たりにした、不思議な感覚だった。
近所を歩いた。こんなに道幅が狭かったのか、遠いと思っていた距離はこんなにも近かったのかと、話をした。
本当に何もかも、何もなかった。
私の住んでいた町にはかつて見ていた建物や家は無くなり、見渡しても美しい夏草の緑が見えるだけだった。見慣れていたはずの故郷の風景はどこにもなかった。
それでも変わらず残っていたものもあった。大きな古木、小さな祠、川や水路、石造りの蔵、銀行だった建物、津波の影響が無かった道。
新しく出来ていたのはアパート群、無数のソーラーパネル、きれいに改装された駅。
昼間の町中に人の営みはほとんど感じなかった。今住んでいるのは原発で作業をしてくださっている方やその家族、その町を維持している方々がほとんどだろう。
震災当時、無音だった静寂で不気味な世界には、鳥の声が戻っていた。
私がここに戻ったのは、震災後二度目だった。一度目は震災から数カ月程経ったあとに防護服を着て訪れた。その頃は町全体も私の家もまだ残っていたが、放置された家はほぼ全壊に近かった。
今は何もない。
嘆き悲しんだのもすでに過去だった。ただ淡々と何も無いという事実だけを見てきた。
何かを感じるのかと思ったが、ただ何もないという事実だけしかなかった。不思議と悲しさはなかった。悲しむにはあまりに時が経ち過ぎていた。
父母は、夏草だけが茂るその風景を前にして、未練がなくなったと言っていた。恐らくここに来るのはこれが最後だ。家族で見に行けて良かった。
帰る中「夏草や兵どもが夢の跡」という言葉がずっと頭に残っていた。