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『セミヘブン』

2022/01/23
@下北沢小劇場楽園

劇団しようよさんへ
日曜15時の回で観ました。書く時間がなかったのでこちらに感想を貼っておこうと思います。名前だけでもアンケートに書いておくべきだったな。
波多野さんは『わたしいましたわ』でもお見かけしました。色白で華奢な身体が美しく、飾らずとも華やぐ表情が良い。言われて嬉しいかはわかりませんが、いわゆるおじさんの妄想する清廉な少女像にぴったりでした。それと、前田さんのお声が声優の山口勝平さんに似ていてすごく気になっていた…。
前半は忘備録を兼ねてしっかりめに鑑賞しています。後半は主に作演に対する批判になります。もっと綺麗に整えて書くべきなのですが、ぐちゃぐちゃになってしまいました。楽しんだり考えたり怒ったり、いろいろしていますが、これだけの思考の発端になる舞台を観劇できたこと、良かったと心から思っています。

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○あらすじ:セミヘブンとは
登場人物はみな大きな間違いをしている。母のためとか子どものためとか、あたかも当事者の気持ちを第一に考えて最善の選択がどれか迷っているかような議論をしているが、そもそも「セミヘブン」には当事者の気持ちなど存在しない。
セミヘブンとは、この世でもあの世でもない「その世」、データベースのような概念上の空間を指す。アップロードされた人間は幸も不幸も喜怒哀楽もない「スタンダードな状態」で永久保存され、好きな時にダウンロードして呼び出すことができる。生きること・死ぬことのままならなさから解放され、健やかで自由な時間を過ごすことができるのだ。
…というのはアップロードする側の論理。セミヘブンはアップロードされる側、すなわち当事者の意思を完全にないものとする限りにおいて、全員がハッピーになれるというシステムだ。つまり、男の「お母ちゃんはセミヘブンへ行ってみたい?」という台詞は、全くナンセンスな問いである。

○シェアからパーへ
セミヘブンの提唱者の娘・レイコ先生は、「シェアからパーへ」と何度も口にする。(ここの宗教集団の勧誘のような演出は良かった。役者の演技・客席配置・客電の使い方、すべてが合わさって面白い。言うとおりに目を瞑らないと何かとてもこわいことが起きそうで、レイコ先生がこちらに目を向ける時だけぎゅっと目を瞑ってしまった。)シェアとはその名のとおり自分の思いを他者に共有すること、パーとはその逆、自分の思いを自分の中だけで完結させるため、セミヘブンからダウンロードした「先死さま」にすべてを吐露することだ。
すべての人間の「皿」を自称する先死さまの前では何もかもを曝け出すことができる。このように矛先のない吐露は「王様の耳はロバの耳」やツイッターを思わせる。しかし厳密には、両者は矛先がないのではなくて不特定多数に存在する、そういう意味ではシェアである。マイホーム・マイカーの時代が過ぎ、シェアハウス・カーシェアリングが台頭する現代はシェアの時代だ。そこからさらに、シェアする他者を徹底的に抹消した先にあるのがパーだ。時代はシェアからパーへと向かっている。

○構成と主題、評価
「セミヘブン」「シェアからパーへ」 というSF設定は、時代の趨勢を斬新かつリアルに切り取っており秀逸だと感じた。男はセミヘブンに懐疑的だが、母の介護に苦労しており金銭的にも困窮しているためか妹夫婦に上手く反論できない。レイコ先生の宗教じみた演出からも作り手がこうした思想に警鐘を鳴らしたいことは明らかで、セミヘブンをユートピアとする思想に男がNOを出すエンドが予想される。実際、結末はそのようなもので、ラストの「帰ってもどうしようもないけれど、帰ろうか」というのは良い台詞だった。
伝えたいメッセージは理解できるし賛同する。が、私は終盤、この男=おじさんの語りが全く耳に入ってこなかった。これは役者の技量的な問題が原因ではない。文体がコロコロ変わっておかしな投稿になるが、以下、もっと私の言葉で上記の評価の理由を語る。というか、どうしてもこれ以上まとめられなかったので、ぐるぐる回る思考を走り書きする。非公開のメモにパーするだけでは上演した意味も観劇した意味も潰してしまうから、誤解を恐れずシェアすることにする。

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今日観た劇が、自分が演出なら絶対に絶対にギャグにしないところで笑いを取っていて悶々としている…。
客席が上手と下手の2ブロックに分かれていて、自分含め若い人や女性が比較的多かった下手はしんとしていたけど、たまたまおじさん席の多かった上手からはばんばん笑い声が上がっていた。できることなら私は、終演後そのおじさんたちに何がどう面白かったのかを聞きたかった…!

作演挨拶には「小さく、弱いもののための物語を作りたいと思います」って書いてあるのに。教師に下着を盗まれて自殺した少女の物語はそれに含まれないらしい。生身の少女が口を開くことはなくて、ただひたすらおじさんの懺悔と欲望を公開するための装置でしかなかった。

それまで男は、セミヘブン思想に当てられた他の登場人物に比べると、圧倒的に人間として信頼できる存在だった。でも回顧シーンでは虫みたいに見えた。田山花袋「蒲団」のリバイバル?
フィクションの外の感覚では共感できないはずの行動も、人物の語りや描写を通して説得力を持たせることはできるけど、あのシーンはおじさんが語れば語るほど虫になっていった。しかも長かった。
この虫みたいなおじさんが、しかし物語の主人公であって、物語の終盤にかけて彼の働いた行為が"過去の過ち""人間の愚かさ"みたいなものに矮小化・美化されてしまっていて。最後の長台詞の内容はよく覚えていない。貴方に生を語る資格ないよと思ってた。おじさんのナルシシズムに付き合わされている少女は生身の人間"だった"ことすら忘れられているのに。

教師だった男が思いを寄せていた少女は、彼の退職後自殺した。男はそれすら知らなかった。偶然見つかってダウンロードされて、「先死さま」となった今は感情がないからおじさんのパーの「皿」になるという。この展開はなに?制服ポルノ?
ぶってくれ。抱きしめてくれ。子守唄を歌ってくれ。男が欲望を口にするたび、上手のおじさん席では笑いが起こるけど、私はこの笑いが作り手の意図したものかどうかをずっと気にしてた。
「今いいところなんだから!」わはは。
この台詞ではっきりした。これは作り手の意図した笑いだ。私が演出ならあのシーンは絶対にギャグにはしない。とてもできない。あのシーンで笑いが起こる客席にも私は絶望した。

作り手は当然、仕掛けたギャグに観客が笑っていたかをチェックしているだろうけど、どのギャクで笑っていたかだけでなく、どのギャグで誰が笑っていたか、誰が笑っていなかったまで省みてほしい。
京都公演で性暴力に関する描写にクレームが入ったと聞いたけど、上演と対応を見る限りクレームの真意は理解できていないのだろうと思った。(私もクレームを入れた本人ではないから、その人の真意は定かではないけれど。)

「先死さま」である少女は「スタンダードな状態」だという設定も途中でぶれていたような。みんなに知られて恥ずかしかった、恨んだ、憎んだ、などの台詞も借りてきたような語彙でリアリティがない。中途半端に書くぐらいなら、スタンダードな状態という設定を活かしてせめて無機質に振り切ってほしかった。

リアリティのなさは男の妹の台詞にも感じた。自分の兄が生徒に手を出して懲戒免職されたというだけでもおぞましい。のに、それが、あろうことか自殺した被害者をセミヘブンからダウンロードして、その腰にまとわりついている!!!こんな現場に遭遇して、あんなふうに怒れるか。言葉が出てくるか。「謝れ、土下座、土下座」と言って一緒に土下座していたけれど、家族として一緒に加害者側に立つなんてできないと思った。むしろ女として否応なく被害者側に立っていると思う。でも加害者は自分の実の兄で、その事実はどうしても切り離せなくて。情けなさと申し訳なさでいっぱいで、言葉も出ないと思う。これはキャラクター設定の問題なんだろうか?それくらいの反応になって然りのおおごとだと、私は思うのだけど。

結局、セミヘブンの利用は生きている者たちの自慰にしかならない。(墓とはそもそも、死者ではなく生者を慰めるためのものだけど。セミヘブンは生きた人間をアップロードするところに根本的な欺瞞がある。)生身の人間の生から目を背けて都合の良い記憶をダウンロードしたところで意味はない。生きること・死ぬことのままならなさを受け止めて、「帰ってもどうしようもないけれど、帰ろうか」となる。それはわかる。わかるんだけれども、じゃあ最後に背負っている母を少女の役者に兼任させたのはなぜ?母に少女の面影を見ていては、それは母の生を・死を直視するという結論には至らないのでは。私はあれは、重い砂袋でも背負って一生懸命歩いた方が、本物になったと思う。

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