『すなの』
2022/03/06
@THEATER E9 KYOTO
若だんさんと御いんきょさん
山本正典,2021,「すなの」『せりふの時代2021』演劇出版社.
後輩が戯曲を読ませてくれた。めーーーーちゃよくて、ト書きがよくて、でも小説じゃないから観客はこの綺麗な一文を読めないし、映画じゃないから観客はこの小さなカットを見られないし、いったいどうやって舞台にするんだろうってわくわくした。弾丸京都はさすがに…と思ったけど万難繰り越して観に行った。いま逃したら一生観られないからね。
コロナ以降新しい劇の形が模索されてきたけど、やっぱり私はまだ劇場で観たものしかふるえた舞台はないかも。それは映像演劇がだめということではなくまだ発展途上なんだと思っているということで、あとやっぱり劇場で照明が落ちる瞬間はとてつもなく素敵だなあということ。行ってよかった。鴨川沿いの良い劇場でした。
一幕20分×3団体が続けて上演する。まずその企画に心躍るね。コトリ会議『スーパーポチ』の時も思ったけど、若旦那さんの前説いいなあ。好きなタイプのお坊さんみたいな声。芯がどこにあるのかわからない、高いんだけど深い声。アフタートークも(中身以上に喋りのテンションが)面白かったです。すみません。
ひとつめの上演でびっくりしたのが、ト書き読むんかいってことと、当然あると思っていた砂時計がないことと、当然一つだと思っていた机が二つに分かれていること。
戯曲を読んだ時、ト書きは私の脳内で女女しくない女性の声、あるいは男男しくない男性の声で読めていたけど、あれだけ低くずっしりと読むと近代文学の朗読のような風格が出るのだね(あの文体で…!)ってところに驚いた。
砂時計はどんな色形かたのしみにしていたけれど、眼前にないものについて語る二人の絵は綺麗だったな。見えない幸せを探す二人とも重なる。でも砂時計は見えない時間を量的に可視化する点が魅力的な道具なので、もし私が演出するなら用意すると思う。太っていてたっぷりとしたやつを。
机を二つに分けて置く演出は素晴らしかったな。それだけでもう全ての意味を示せるもん。二人の間を映像の砂が、最初は細く、いつの間にかどばどばと流れ落ちていて、ああそんなに流れてはだめ、と思いながら、二人の会話に耳を傾けていた。
妻すき。自然で、素朴で、かわいい。「さわあん」ってこれどうやって言うのって思っていたけど、かんぺきだった。眠るような、ため息を吐くような、砂が落ちるような、そんな音。
ひとつめはミニマム、ふたつめはドラマチック、みっつめはリアリスティックだと思った。みっつめの夫の演技体はあくまで演劇的なリアルだと思ったけど、ループを示唆する演出や、妻が今出す声はすーという音で、会話は録音で聴かせる点に、脚本に対する演出家の生真面目さ・誠実さをかんじた。しかし生声のすーだとどうしても息継ぎが必要になるので、とめどなく流れる砂を表現するのはむずかしかったのでは。
ふたつめの上演は舞台演出全体で夢の中の時間を表していたように思う。普段着+マスクの夫と、白いワンピースに白い花の髪飾りの妻。粘土細工の小道具、自然光にはないほど濃いアンバーの照明、まるでレクイエムのような音楽。妻は衣装に負けないほど純粋無垢然とした演技をしていて、これはたとえば妻ではなく死んだ子どもとして解釈できないかとも考えたけど、にしてもやはり自然に接続されないので、現実の妻が死んでから夫は理想化された(虚像の、妄想の)妻を見ていると解釈してみた。あるいは、妻の代わりに白くてふわふわの可愛い犬を飼いはじめて、それに話しかけているとか。
いずれにしても、戯曲からもやもやと立ち上がりかけていたイメージに、演出が施されて舞台になるとここまで意味が付与されるのかと目を剥いた。解釈の余地のある小説は他人の読解を読んでびっくりすることがあるけど、演劇は原作と他人の読解をいっぺんに読むようなものだな。脚本家以外の作り手の腕の見せ所がふんだんにあると思うと胸が高鳴るけど、「この本を俺らはこう読むぞ、こう読めよ」って観客に解釈を提示するのは(そしてお金を取って一定の時間一定の場所に拘束するのは)やはり根本的に恐ろしいことをしているな。
戯曲を読んだ時はもう少し違うときめきを感じていたのだけど、それは感じなかったな、なんだっけ、と思っていた。3作とも、最後のト書き「テーブルの上で、少し離れた妻の写真は、真っ白な⽊の額縁の。」に接続する様々な伏線と夫の心情を取りこぼさないよう慎重に丁寧に作られていたけど、私は仮にこのト書きがなかったとしてもこの夫婦の物語は成立するようにできてると思ってる。
コーヒー「飲めるの」然り「行きたかったな フランスな」然り、この一言で一気に不穏な空気が漂うけど、そうなると観客はこれなんの伏線だろう、どういう意味だろうって謎解きを開始してしまう。それによって埋もれてしまったセリフが(ただふつうに永遠に近い夫婦の時間を生きている男女のセリフが)あったんじゃないかと思う。二人とも生きてる前提で十二分に味わえる作品だけど、最後のト書きを起点に読み直すとアナザーストーリーがあるよ、みたいな遊び心のある戯曲じゃないかしら。(しかし演じる身は一つなので、妻死んでる路線の感情をしっかり接続させないと演じられないから、どこまでニュアンスを出すべきか悩ましい。砂時計を逆さにするってことはまだ現実を受け入れてないってことで、すると泣いたり落ち込んだりする段階まで感情は育っていないか?と思うので、悲しみとか諸々の感情を半ば麻痺させて坦々と会話していくのがいいだろうか。)
さいごに、額縁のト書きを読む前に(二人ともふつうに生きていて、これは漫然とした愛の物語だと思って読んでいた時に)すきだと思った場面を。
・「どこにも行かない/え/ここにいる/え わたし/え 砂/すな/砂 どこにも行かない砂 え 落ちきらない砂」
・(見えないのに、幸せの丸いのを二人して探して)「探してる間にコーヒー冷めてね/うん/コーヒー冷めちゃったら俺のぬるいお湯入れた罪もなくなるんだよ/なくならないよ/なくなるんだよ証拠がなくなるんだから/なくならないよ録音したんだから」
・「夕方三時の日の光。夫は砂時計を、こと。砂時計を逆さにする。ピンクい砂が、少しだけ戸惑って、また下に落ち始めた。」
・「さわあん/妻のため息が、夫にはこのように聞こえる。すんすん、夫は笑う。コーヒーをすする。まだ温かかった。」
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