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『犬のかたちをしているもの』

2022/06/02
高瀬隼子,2020,集英社.

眠れなくて読みはじめて余計眠れなくなった。めちゃめちゃ頭冴えてしまった。瞼はこんなに重いのに。帰省の直前にこれ読んじゃったのけっこうやっちゃったな。さわやかな晴れやかな気持ちで帰りたいな。こんどの帰省は慰安ではなく凱旋の色がつよいのに。

昔は本に書き込むことに抵抗があったから付箋を貼るだけにしてた(今も概ねそうだ)けど、チェック付けたり線引いたり、ページメモしたり思ったことじゃんじゃん書き込んだ。
こことここが繋がってるみたいなロングパスのうまみが多くて、だからこまこまと読解して書き綴ることもできるけど、なんかもういいや、書き込んだ筆跡ごと鍵を掛けてしまい込んでおきたい気持ち。
そんなに固い鍵じゃなくて、小学校の時に流行ったプロフィール帳に付けてたおもちゃみたいな鍵、ここに大事なものが入ってるんだぞって示すためのマークとしての鍵。ほんとは開いてひとに見せたい。けれど「これ読んで」とひとに薦めること自体が意見発表というか主張めいたものを含んでしまって、たとえばこれを母に薦めることはぜったいできない。世の中で、勝手に売れて、勝手にいろんな人に読んでほしい。
いろんなことで、ちょっと動いただけで、あるいは動かないだけで、もうすでに自分の意思を表明したことになっちゃうもんな。作中にもそんなのあったな。外側から勝手にやってきたものに対して、悩んで決断して責任を負って、その工程自体がそもそもしんどい、みたいなさ。

「子どもを持ったら、世界はわたしに優しくなるかしら。
そんなことを、卵巣を切り取られた後に散々考えた。
産むではなくて、持つでも、世界の優しさは同じだけ与えられるだろうか? 自分で産まないで、人に産んでもらったって、それは郁也たち全ての男の人たちと、同じだ。」(pp. 113-114)

ごく普通のこととして、世間話やガールズトークの一環として「子ども欲しい?」と聞かれることがある。いつから使いはじめたかわからないけど、「んー、旦那が産んでくれるなら欲しいかな!」って答えてしばらくやり過ごした。(最近は聞かれてないからなんて答えるかわからない。)これ我ながら秀逸な返しで、聞き手の解像度に応じて勝手に好きな分だけの含みを読み取ってくれる。単に痛そうとか大変そうとかだけで話が収まるならそれでいいし、もっと根深いものを想像してくれてもそれはその人が勝手に想像してくれたというだけで、とくに私が積極的になにかを言ったわけでもないから。「なにか」の内容を詰める労力も説明する手間もかからない。

まったくするすると素直に入ってくると言えるほど楽に読んだわけではないが、だから2Lのペットボトルをラッパ飲みするくらいのしんどさで、それでも水を飲むようにごくごく読み入れた。
川上弘美『真鶴』の幽霊はけっきょく何なんだろうって、どうやら景や礼に直接関わらない他人であるようで、景との距離感を測りかねて保留にしてたけど、『犬のかたちをしているもの』でミナシロさんが薫に入り込んでくる様子を見ているうちになんとなくわかった。幽霊の物語と景個人の物語が直接交錯しなくても、幽霊は景に「ついてくるもの」として十分成立するようだ。

いつまで引きずってんのってかんじだけど「頭でばっかり読んでる感じがする」って言われたことをずっと考えてる。まず論理<感覚みたいな知性的なものを軽んじる風潮に引っかかるのがひとつと、それとは別に私は頭だけで読んでるのとは違うと思うけれど、という違和感。当初の「どうなんだろう…」という不安と自己反省を経て、今や「そんなわけなくない?こんなに日々脅かされながら生きたり読んだり書いたりしてるのに」っていらいらしてきた。
(あたりまえみたいに生きることと読み書きを併記しててすごいなって今思った。物理的にも、布団かぶって本読んでるし、今日は眼鏡とペンと一緒に寝てる。)
高瀬隼子さんの小説は他のも読みたい。『水たまりで息をする』と、『おいしいごはんが食べられますように』と。

最後に、もっと軽妙に、面白いと思った箇所を紹介しようと思ったけど、「おもろい」ってメモした箇所すべてが抑圧とか痛みとセットになったドライなジョークで、文脈を載せきれないのが残念だから温存する。

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追記!

展開のシュールさがこの作品の良さのひとつだけど、だとすればそれによって思考過程の現実味は損なわれないのか、つまり「おもしろいけどそうはならんやろ」は気にならなかったのかという質問を受けた(合ってる?)ので、考えたことメモ

展開はぶっ飛んでるとこあっても、その間の思考の過程は緻密というかめちゃくちゃリアルで頷けるところばっかりだったと思う
展開のインパクト先行で思考の過程すっ飛ばされてるなってのがあればわたしは気になる(埋めたくなる)と思うけど
いろいろ考えた結果妙に納得しちゃったり、人が集まってまじめに考えてわけわからん方向に話進んでいっちゃうことってあるから
ミクロに見てったらおかしいとこないのに、マクロに見たら一体なんでこんなことになってんの?を造るのがうまいんじゃないかしら

わたしが劇創るときは繊細な心の動きのリアリティを大事にするタイプだから、不条理っぽい脚本をもらったとき、これをどう読み、解体し、再構成すればいいのか、いま考えてる

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