『わたしたちが光の速さで進めないなら』
2022/12/(読みかけ)
キム=チョプ,カン=バンファ・ユン=ジヨン訳,2020,早川書房.
自劇団の脚本家からおすすめしてもらって読んでみた、SF短編集。そのひとが前に「百合SF書いてみたい」って言ったのを、わたし、SFを SMって聞いちゃって、「今までもけっこう百合SMみたいなもんじゃないですかね」って返してしまって恥ずかしかった。
表紙の折り返しに装丁を担当した人の名があるというのを教えてもらったから、見てみると、『光と窓』のカシワイさんだった。
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「巡礼者たちはなぜ帰らない」
李琴峰「彼岸花が咲く島」に似てる。というかこういう、閉鎖的なユートピアと外側のディストピアって型があるよね、剥奪された歴史を取り戻して真実を知るみたいな…。謎が開いていく感覚があるので読み進めていくのは楽しいけど、苦しみを引き受けるためのよすがが愛であるなら、その愛の永続性を信じられないといろんなことが難しそう。そしてその愛の永続性を信じるだけじゃいろんなことが難しそう。…という煮え切らなさが少し残る。わたしが巡礼者なら、愛する人を見つけたのとは違う理由でその地獄に残ることを決めてみたいかも。それってなんだろう。
「スペクトラム」
わたしこれ好き。タイトルが天才。スペクトラムっていう語彙の概念をわたしはきちんと理解できていないけど、
1.光を分解して波長順に並べたもの
2.曖昧な境界を持ちながら連続していること
らしい、とりあえず。
1.の意味では、知覚できる音や色が違うこと、それでも意思疎通を試みること、地球に帰還したヒジンがガラスを集め続けたこと、ヒジンの経験を外側のだれも知ることはできないが「わたし」だけはその語りの価値を信じようとすること、などが読み込める。
2.の意味では、ひとまずはヒジンや「わたし」たち地球人と、ルイたちの生命体の連続性を表しているものだと捉えることができる。もう一つは断絶しながらも連続するルイの存在。ルイが死んで、次に来たルイもまたルイであること。これは今村夏子「あひる」みたいな展開だと思ったけど意味合いが全然違っていて、ルイは前のルイが残した記録をもとに後天的にルイであることを引き受け、ヒジンを大切に扱うことも同時に引き受けていく。これは、ううん……上手く解釈できないけど生命を繋ぐとか歴史を繋ぐとかいうことに似ていて、不気味なようで素敵なようで不気味なような。
「共生仮説」
直近で読んだ『左利きのエレン』を少し思い出す。色が見えるひと、音が聞こえるひとっていいな。
どこにも似てないのに不思議な郷愁を抱かせる絵、って、永原トミヒロ…ってコト⁉︎ あれは原画があるけど、画廊のひとがそんなふうに評価してたのを思い出した。
「わたしたちは今はなき惑星を見ているのです。かつて実在したけれど、今は消えてしまったリュドミラの世界を」(p. 90)
川上弘美「星の光は昔の光」、わたし好き…。
今は無きリュドミラの惑星と、今は亡きリュドミラ本人が重なって、掴みとしてよい滑り出し。
そのあとかなり経ってたから続きを読み終えたせいかもしれないけど、あとの展開や結末はふうんってかんじだった。
「わたしたちが光の速さで進めないなら」
SFというジャンル全般に当てはまるかはわからないけど、これは小説よりも漫画やアニメで表現するほうがいいんじゃないかと思った。読者が共有してない状況や設定を物語中の人物たちだけが共有している間って、わけがわかるまでやっぱりいらいらするし、文章のうまさや情報提示のテクニック次第で工夫できるとはいえ、絵とかセリフで説明のための文章がカットできるならぜったいそのほうが読みやすい。立ち上がり時間かかるからその間に飽きさせないことが課題で、後ろのほうのセリフが素敵というのはうちらの劇に似てると思った。到達できるか否かより、到達できない彼方に向けて進む運動それ自体に意味を置くという話と取った。恋愛みたい。
「感情の物性」
感情の物性という石を購入するとその香りの影響を受けて(?)石の名前が示す感情が増幅されるという、ある種の麻薬が流行する話。寄生虫とか外部の物に感情の本質が左右されるのって彩瀬まる「花虫」に似てるな。pp.177-180あたりで面白くなる。
noteに書いたことがあるかは忘れたけど、わたしは10月くらいから正しく傷つく、過不足なく傷つく、みたいなことを考えてる。『オチツキ』や『トキメキ』ならともかく、『ユウウツ』や『フンヌ』などのネガティブな感情の物性が売れるのは、感情が物として可視化される状態にあったら自分はこれだけこういう気持ちなんだって自信が持てるから、逆にいえばそうやって形で示されないと自分の傷つきすらあまりにあやふやで自信が持てないからだと思った。
感情に名前を付けることで形のない気持ちを有るものとして固定するという、名付けが果たす役割(言語的に認知できる)を、さらに押し進めたものとしての感情の物性(視覚・触覚・嗅覚的に認知できる) 。定量的に知覚できる感情というテーマにはかなり興味がある。
ほかの作品もそうだけど毎回種明かし的なパートが入ると少し興醒めする。出だし魅力的なんだから説明しきらなくていいのに。恋人との関係、つらい気持ちになる。さいごのほうのセリフがよかった。
「だけどわたしはね、自分の憂鬱を手で撫でたり、手のひらにのせておくことができたらと思うの。それがひと口つまんで味わったり、ある硬さをもって触れられるようなものであってほしいの」(pp. 187-188)
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先に後輩に貸しちゃって、読了の目処が立たないから一旦ここまでで投稿しちゃう。2ヶ月前に書いたメモなので、本の内容忘れてるせいもあって今読み返すと少し距離遠く感じる。
「感情の物性」が私たちの劇に絡むからそれが本命だったわけだけど、しんどさが物理的に目に見えて手で触れられる形として現れてくれたら、それはたしかにめっちゃ有難いわなと、自分と自分の役と、ほかのいろんな人たちのことを考える。